ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

見えた。(8/14加筆訂正・追記)

【注意】

①これは極めて突発的に、かつ発作的に書かれた文章です。つまり雑です。後々色々変わる可能性があります。ご了承ください。

②未だ1巻未発売の『てのひら創世記』について、ゲッサン2020年9月号(8月12日発売)の最新話を含めたネタバレがあります。この先を読む際はその点もご了承ください。

③(9/13加筆):本記事を『てのひら創世記』一巻までの情報で再構成した記事を執筆しました。コチラからどうぞ。

 

こんにちは、さいむです。

今回は生存報告を兼ねて、『てのひら創世記』について少し書いていきます。

 

さて、最後のブログ更新が4ヶ月前でその間何をしていたのかという話ですが、ずっと『てのひら創世記』を読んでいました。

読み続けていました。

それなのに何故更新できなかったのかと言えば話は単純で、「書くことが何も思いつかなかったから」です。

ちょっとこのブログを更新している人間の心情の吐露としては我ながら信じられないものがありますが、事実だから仕方がない。

『てのひら創世記』の2話以降、私はどうしてもこの作品に語るべきラインを見出すことができませんでした。

小川麻衣子先生が描く物語としての手触りは確かにある。キャラクターの言動や心情も過去作品のそれによく一致する。確かに「いつもの」小川麻衣子先生の作品である筈の『てのひら創世記』は、しかしこの物語が何によって駆動しているか、という「テーマ」の存在が異常に希薄だったのです。

方向性がない。『ぼっち侵略』の頃ならばとっくの昔に何度も出ている筈の「これからどうしたいか」というキャラクターの強い願いや方針がない。彼らに課された当面の課題も曖昧で、毎話何が起こっているのか、何かが進んだのかどうかも判別がつかない。

『ぼっち侵略』において小川先生がそのテーマを強固なまでに制御しきっていたことを考慮するならば、恐らくこれらは全て意図的にそう仕組まれたものである筈です。けれども、その狙いを示唆するものはさっぱり見えない。何がしたいのか分からない……。

最新話が公開される度に食い入るように内容を読み漁り、ついでに全話読み直し、やがて疲れて止めてしまう。もしかしたら自分の読み落としがあるかもと思うだけでろくに眠ることもできず、そんな苦悩が話数の累積と共に増大していきました。

 

そして、ゲッサン2020年9月号です。いつものように内容を流し見したところで、すぐに気づきました。――間違いない。テーマが語られている。

咄嗟に別の可能性も頭をよぎりました。勘違いなどということはまずあり得ないにしても、今までの小川先生の悪辣さ(もの凄く超褒めてる)を考えるとこれさえも罠の可能性があるのではないか。ここから更により本質的な部分に斬り込んでいく前座に過ぎないのではないか、と。

しかし、この第2章第4節「未知との遭遇」こそ、今までの『てのひら創世記』という物語が何であったかを総括している話であることに少なくとも間違いはありませんし、ここを土台とする限りはテーマが変遷したとしても読み間違うことはない筈です。過去の小川麻衣子作品からのテーマの連続性を考慮しても辻褄が合います。

小川麻衣子先生がここまでテーマそのものの開示を拒み続けたのは未だにちょっと不思議ですが(実を言うと説明できなくはない)、ともあれこれでようやく私と私のブログはスタートラインに立てました。感想を書いていこうと思います。

 

で、ここからは『てのひら創世記』のテーマについて簡潔にまとめていこうと思います。『てのひら創世記』のテーマ、それは恐らく、

 

 

 

「自由」です。

 

「私が好きなんだ剣術が!」

「剣と一つになって動けた時とても気持ちがいいんだ!見たことのないところへ私を連れて行ってくれる。自由になれる。」

「君は鳥だけど自由じゃないの?」

 

少なくとも、このタイミングでこの台詞を千絵に語らせるということはそういうことなのでしょう。彼女自身の新たな目標も垣間見えましたし、一気に物語の方向性がはっきりと明示されました。

 

さて、本来なら私は最新話の意味ありげな台詞へとただ闇雲に飛びついたのではないことを示すべく色々と根拠を語る必要があるわけですが、その前に小川麻衣子作品における「自由」とは何であるかを考えなければなりません。

 

まず大事なポイントとして、小川麻衣子作品における「自由」とは「何にも縛られないこと」を必ずしも指しません。それは「自分にとって価値のあるものを、自分の意思でつかみ取ること」です。そしてこのことを強調するために、この「自由」は寧ろ、「不自由」な環境で生きるという選択を取れることこそが「自由」であるかのようにも描かれます。

ここでは『ぼっち侵略』をその例として挙げてみましょう。主人公の広瀬くんは祖父の珈琲店を継ぐことに憧れ、自ら望んでその道を進んでいきます。宇宙や宇宙人といった広い世界、宇宙人や魔法に基づく超常的な力、子供ならではの自由な時間、自分の知らない未知なる可能性、そういったものに彼は一切後ろ髪を引かれることがありません。そしてヒロインの大鳥先輩も、宇宙人として強大な力を振るい自由奔放に生きてみせながら、その実は人間として生きることを何よりも望むようになっていきました。他のキャラクターも挙げていくと枚挙に暇がありませんが、ともあれぼっち侵略において「自由」とはそのように扱われています。例え何かに強制された道であっても、他の誰かによって予め敷かれたレールであっても、その上を自らの意思で進むことこそが「自由」なのです。

対して真にしがらみからの解放を望む者達は、結果的に全てを破壊することでしか望んだ形の自由を手にできなくなります。ゾキやマハは、過去や未来の一切を破壊することでしか今に価値を見出すことができなかったために、広瀬くん達と対立し、やがて敗北していきました。それほどまでに、小川麻衣子作品において「自由」とは価値の在処と密接に結びついているのです。

 

また、『ぼっち侵略』という作品のテーマに関しても「自由」とは大きな問題になり得る要素でした。これに関してはテーマとの単なる結びつきというよりは、テーマを実践する上である程度犠牲にならざるを得なかったものこそが「自由」と言えるかもしれません。『ぼっち侵略』の中心的なテーマは『赦し』でした。これに関する詳細は弊ブログの他の記事に任せるとして、問題はそのテーマを実践するに当たって、その中心たる大鳥先輩の「自由」が奪われざるを得なかった、という点にあります。

大鳥先輩は他者及び他者という概念と触れ合うことなく生きてきた少女であり、『ぼっち侵略』ではそのことを前提とすることで、「赦し」というテーマを大鳥先輩の成長と共に段階的に描くことが可能になっていました。逆に言えば大鳥先輩の他者と触れあい、他者を知っていく成長の過程は物語のテーマに強く要請されたものであり、その意味において大鳥先輩は物語のテーマの体現者として、常にテーマに縛られ続ける存在でもありました。一見して自由に振る舞っているように見える彼女の言動は、実は常にテーマによって徹底して管理されるものでなければならなかったのです。このことは大鳥先輩の具体的な成長段階が作品において常に秘匿されるような描き方をされている点から逆説的に導き出すことが可能であり、またこれによって大鳥先輩から少なからず損なわれたものも存在します。

 

そう、ラブコメです。

 

アイラと龍介のカップリングの方が所謂ラブコメの最大瞬間風速としては高いということはこのブログでもチラホラ言ってきたような……そうでもないような気もします。これについて改めて説明しておくと、元々大鳥先輩と広瀬くんの関係は作品に設定されたテーマの完走を主軸に置いたものでした。3,5巻の古賀さんや9巻の針山くんによって発生したラブコメ展開でさえも作品のテーマを次の段階に進める上で必要な葛藤を描くために投入された一面を持っていたほどです(そのため、この辺りは弊ブログでも強めに解説を入れています)。一方でその軛の外にあった龍介はアイラに対して比較的自由にアプローチすることが可能になり、結果としてこの二人の関係性は主人公とヒロインのそれよりも、所謂「てぇてぇ」ものになっていました。

私個人は寧ろテーマを初志貫徹したことの方が面白いと思う人間ではありますが、少なくともこの点において、『ぼっち侵略』はその戦略をある程度間違えていたと言うことは可能かもしれません。それを傍証するかのように、大鳥先輩や広瀬くんの住む世界(地球)を守り、また二人に守られてきた存在でもある「港」は、作品のテーマこそがあるいは二人を縛っていたものの正体であることを認めるがごとく砕け散り、最後は成長した二人を自由な世界へと解き放ちました。そして『てのひら創世記』という作品は、そうした問題の解決をこそ焦点としてスタートすることになるのです。

 

やっと本題に戻ってきましたが、では現時点における『てのひら創世記』の「自由」の実践とは如何なるものであったか。それはまず、キャラクターの言動をテーマによって強く縛りつけない、という点に集約されるでしょう。『ぼっち侵略』は「ただ一緒にいる」という行為がテーマである「赦し」へと繋がるものであり、その早期の暴露によるテーマの崩壊を防ぐために各種描写を隠匿する必要がありました。対して『てのひら創世記』は、そもそも作品のテーマを登場人物の始点として明示することなく、各キャラクターの行動が結果的にテーマへと回収される形式を取りました。つまり、千絵や愛一郎の言動をすぐにテーマに回収させず、彼ら彼女ら自身のものとして一時留保することで、真に彼らの価値観に基づいた「自由」な行動を可能としたのです。

そう、ラブコメだよ、ラブコメ。よし!

勿論、これは「人気が出ず打ち切りになる不安があったため、すぐテーマを回収しきれる保険を打った『ぼっち侵略』」と「『ぼっち侵略』や『魚の見る夢』を通して経験を積み、テーマを急がずじっくり描けるようになった『てのひら創世記』」という、作家の精神的な余裕、戦略の違いに過ぎないという見方もできます。が、その『ぼっち侵略』自体が先述したようにテーマの早期回収手段とテーマそのものの描き方に関する工夫を一致させてみせたことからも、『てのひら創世記』もまた同様の仕込みとしてこれを実践したと見てよいと、私は考えています。

では、『てのひら創世記』は如何にしてここから「自由」というテーマを回収するのか……については後述するとして、そもそも千絵や愛一郎にとっての「自由」とはどう描かれているのか、こちらを見ていきましょう。と言っても、こちらもテーマだけあって本当に多量に描かれている部分なので、一部分に留めておきます。どの道各巻感想で死ぬほど書くことになりますからね……ははは……。

千絵と愛一郎の「自由」(価値の在処)は、例えば第一章第一節「月と太陽のめぐり」においても何度も何度も描かれています。冒頭部分においてすら、千絵と愛一郎が互いに不本意な(=不自由な)状況にあることを示していますし、ひーくんはその象徴として描かれています。赤ちゃんは家族に守られるべき存在であり、またそうであればこそ家族を縛る存在でもあるからです。

二人の「自由」は、この第一章第一節においては一見して対照的なものとして描かれます。家系や血筋に縛られつつもそれを望む千絵と、家系からの解放を望みつつも根底で縛られ続ける愛一郎。代々受け継いできた剣を我が物と自由自在に扱う千絵と、剣を捨て拳を自由に振り回そうともがき苦しむ愛一郎。

交わることのなさそうに見える二人の「自由」は、しかし一方で「家族を守る」という一点において共通するものであり、だからこそひーくんの存在が意味を持ちます。ひーくんは赤ちゃん(新たな家族)という不自由の象徴でありながら、また赤ちゃん(新たな家族)であるが故に、二人の「自由」が重なり合う可能性と未来の象徴でもあるのです。

であるならば、『てのひら創世記』におけるテーマの回収手段も自然と見えてきます。赤ちゃんは新たな家族であり、また成長することで家族内における役割、立ち位置が変化する存在でもあります。千絵と愛一郎もまた成長することを外部の人間達から望まれていますが、その内実は明らかになっていません。二人の成長とは何なのか。それは恐らく、単純に「知る(自認する)」ことなのではないでしょうか。なんとなれば価値とは「知る」ものであり、「自認する」ことでその対象を再認識できるものだからです。これは『てのひら創世記』における設定の開示速度が遅いことも関わってきています。「知る」ことが二人の成長=テーマの回収に直結する以上、作品の設定を無闇に開示することは二人をテーマの軌道上へと配置してしまう行為になり、つまりは「自由」を奪うことになりかねないからです。

物語の設定、セカイの全貌が明らかになる中で、果たして千絵と愛一郎はどのような「自由」をそのてのひらに掴むのか。それこそがこの物語の最大の焦点となることでしょう。しかしそうであればこそ、二人の「不自由」で「自由」な日々を、今はじっくりと読んでいければと思う限りです。一見して遅滞して見える日々こそがこの作品のテーマであり、また我々もまたそんな二人を見ていたいと、きっと思える筈なのですから。

 

だってねぇ、あなたも好きでしょ、ラブコメ

 

 

 

……と、いうのがここ1,2日で見えた大体の構造になります。ざっと思い浮かんだものを書き殴ったのでまだまだ雑ですし、仮にこれが正しいとするとそれはそれで別のテーマ的な問題がありそうな気もしないではないのですが、それはまたおいおい書ければと思います。

『てのひら創世記』1巻発売まで一ヶ月を切りました。正直冒頭に書いたとおりの理由で様々な諸々がすっかり手に付かず停滞していたのですが、ようやく魂に火が宿った気がするので色々再開できればと思います。頑張ります。

 

ではでは。

 

 

8/14 21:00頃 追記

 

……なんだこの文章は……寝言にしても限度があるぞ……。

流石にやばいと思ったので色々書き直しています。多少は読みやすくなったと思いたい……(そのうちまた加筆訂正するかも)。

 

で、そのついでに一つ書き忘れていたことを。

小川麻衣子先生がここまでテーマそのものの開示を拒み続けたのは未だにちょっと不思議ですが(実を言うと説明できなくはない)

と最初の方で書いたのですが……正直謎です。

本作のテーマが自由であり、また過去作の反省から登場人物をテーマそのものに束縛し過ぎない配慮がなされているという仮説が真であるなら、なぜ今このタイミングである程度それを開示したのか? この記事はその視点が完全に抜け落ちています。

 

……まぁでも、実際何故なのかさっぱり分からないですね……。

そりゃあ仮説は幾つか立てられますが、その先に待っているのは

A:「作者の人そこまで考えてないんじゃないかな……」

B:「いやお前今までの小川先生の鬼畜の所業(全力全開フルパワーで褒めてる)を棚に上げてそれを言うなよ……」

という脳内さいむの大乱闘スマッシュブラザーズなので、まぁうんって感じなんですよね……。

仮説A:考えすぎ。うっかり描いちゃったとか筆が乗ったとか小川先生も描いてる間にここまで言語化できるようになったとかそんなんじゃない?

→楽になりたいのなら断然こっち。

 

仮説B:小川先生は細かい設定ミスならまだしも、作品のテーマ管理でミスなどしない。明らかにこの後ひっくり返すか貫くか、ともあれ打算があってこのタイミングで開示する算段を立てたんだよ。大体お前、1巻発売ちょうど一ヶ月前の唐突なテーマ開示を本当に偶然と考えるつもりなのか?

→嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ私ははめられてないはめられてないんだ都合よく餌に食いついたわけじゃないんだきっとこの読みで良い筈なんだ私は踊らされてない私は踊らされてない……!!!

※『ぼっち侵略』連載中も大体いつもこんな感じでした。お気遣い無く。

 

まぁ実際私の読みがどうだったのかは他の人の感想や本編の続きがないことにはあまり打開の見込みの無い話なので、慌てずじっくり行きたいと思います。

 

ついでに幾つか宣伝を。

2020/08/14現在、サンデーうぇぶりにて『ひとりぼっちの地球侵略』が全話無料公開中です。

私の人生人格価値観諸々を大きく狂わせた作品です。初見で作品のテーマまで全て追い切るのは中々難しい作品ですが、読むほどに味わい深い作品ですので最初の1巻分だけでも読んでいただければ幸いです。

作者である小川麻衣子先生の最新作であり、今回の記事でも取り上げた『てのひら創世記』1巻は9/12日発売予定です。こちらもよろしくお願いします。

ではでは。