ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

備忘録:小川麻衣子作品と家族について~つまり『魚の見る夢』が大切ってことですよ奥さん~

※本記事は備忘録として書かれており、こう、とてもノリのセカイです。

※9/11発売の『てのひら創世記』1巻他、小川麻衣子作品のネタバレあります。

 

こんにちは、さいむです。

前回の記事以降脳味噌に活力が戻ってきたのか、何をしていてもふと『てのひら創世記』や小川麻衣子作品のことを無意識に考えてしまうようになってきました。気づいたら頭が勝手にアレコレ考えを進めてくれるので、久しぶりにこういう感覚が戻ってきたなぁと嬉しい毎日です。

で、今回はそんな風に考えたことを書き留めた備忘録となります。『魚の見る夢』の話も久しぶりにするよ!

 

小川麻衣子先生の作品において共通するテーマとは端的に何か。こういう話になった際によく見かけるものが何かというと「家族」だったりします。小川麻衣子先生が頻繁にボーイミーツガールを描く都合上家族云々の話が射程に入りやすいというのもありますが、小川麻衣子作品においては大抵家族が重要な要素として描かれることは確かに多いです。

ただ、小川麻衣子作品では家族が絶対に必要なものなのか、と言われると割とそうとは限らないよね、というのが今回の話の内容だったりします。

例えば『ぼっち侵略』。この作品において、家族という枠組みは広瀬くんが地球侵略に加担する最初の動機であり、また大鳥先輩にとっても家族という概念の理解が、彼女の成長にとって一つの要点となっています。

そして『てのひら創世記』。この作品でも、千絵と愛一郎にとって大事なものは家族であるとはっきり描かれています。

じゃあ家族が小川麻衣子先生の作品の重要なポイントって事でもう良いじゃん! 何がいけないの!? となるわけですが。そうは問屋が卸さないわけです。

まず第一に、『ぼっち侵略』の主要なテーマとは「赦し」であり(詳しくは弊ブログの他記事参照)、『てのひら創世記』の現時点におけるテーマは(おそらくは)「自由」です(これについてはコチラから)。家族という概念は双方において重要ではありますが、それはあくまでも最終的なテーマへと繋げていくためのギミックであって、それのみで作品全体を包括しうるとは言い切れない部分があります。

第二に、これらの作品で登場する家族はその大部分が不完全なものになっています。『ぼっち侵略』では両親を喪っている広瀬くんは勿論、他のオルベリオ人のほとんどが星と共に消えてしまった大鳥先輩、家族から離れて単身日本へやって来たアイラと、みな家族の誰かが欠けている状態なのです。『てのひら創世記』についてもこれは同様で、父親が家から蒸発した愛一郎と、たった一人で愛一郎の元を訪れた千絵と、ぼっち侵略のそれをある程度踏襲した家族の様子が描かれています。家族それ自体を描くことが目的なら、不完全な家族ばかりを描くのは不自然です。

以上のポイントからも、ほとんどの小川麻衣子作品において家族は決してその全てを包括しうる要素ではないことが分かります。ですが、では何故小川麻衣子作品において家族とはそれほどテーマの近傍に配置される要素であり、またその大部分が不完全なものなのでしょうか。

そこで登場するのが、そう、みんな大好き『魚の見る夢』なのです。小川麻衣子作品における「家族」を解題する鍵は、この作品が全て握っていると言っても過言ではありません。マジで。

何せ、2巻巻末のあとがきで小川先生ご自身が「百合といいつつ、テーマは『家族の再生』でした」と言っているくらいなのでこれは間違いないです。ただ気をつけないといけないのは、ここでいう家族はどのようなもので、登場人物達は何を以て家族が再生されたと考えたのか、ということです。

さて、『魚の見る夢』について一から書いていくと端的に言って死ぬので、ここは過去の自分の遺産に頼るとしましょう。いでよ!

thursdayman.hatenablog.com

うーん読み直すと大変頭痛がひどくなる……書き直してぇ……。

ともあれこの約3万文字のおぞましき何かから、必要なものをピックアップしていきましょう。

まずは引用引用っと。長いよ。

魚の見る夢エピローグ「ある夜の日」では、恐らくは最終話以降の周防姉妹の、ある冬の夜の様子が描かれています。4ページ程の短いエピローグですが、これはこれで重要なお話なのでしっかり追っていきましょう。

ある夜、窓の外で雪が降り始めた頃に、二人の会話が始まります。季節折々に変わる空気の重さについて御影が話し始め、巴は1巻で御影が買ってくれた観賞用の藻の水を入れ替えながらその話に応じます。その後二人は雪の降り積もっていくベランダに出て、次のような会話を交わします。

「透明な水の底にいるみたいで手も耳も痛くて身体中がちぎれそう」

「水の底…そういえば海の底にも雪が降るっていうよね」

「そうなの?」

そうして巴が寒くなってきたから戻ろうと提案するも、御影は巴に寄り添いながらもう少しだけ外にいようと提案。二人は次第に頭に雪が積もり始める中、寒さに耐えて雪の降る夜空を眺めています。最後にもう一度観賞用の藻がアップになったところで、エピローグ「ある夜の日」は終わります。

本題に入る前に、一度状況をまとめておきましょう。まず本編終了後と先述しましたが、具体的にどれぐらいの時間が経った頃かは不明です。卒業式、二人が旅行(?)から帰ってきた後に雪が降ったのでないとすれば半年以上の時間が経っていることになります。次に二人のいる場所ですが、恐らくは自宅で間違いないでしょう。自宅には一応2階にベランダがあるので(2巻128P参照)、その一室で交わされたやり取りと考えるのが自然なはずです。総合すると、最終話の後、巴は大学1年生に、御影は2年生になった後の真冬の頃と考えるのが一番無難ということになります。

さて、このエピローグで最も重要視すべき箇所、それは先ほど抜粋した会話の部分です。一見空気の重さ、息苦しさを水や海に例えて放して見せただけの部分に見えますが、ここには魚の見る夢のテーマにかかわる重要なヒントが隠されています。それを解き明かしていくために、一度1巻の冒頭まで立ち返り、魚の見る夢における「水」、ないしは「海」に関する描写を振り返っていきたいと思います。

第1話の冒頭で、巴は自分が魚になり、海の底で首輪に釣られようとする夢を見ます。ここで巴が海の底について「息苦しい」と言っていることが重要です。この息苦しさはエピローグで御影が言っていた空気の重苦しさにも繋がるもので、ここでは「魚の見る夢において海の底は息苦しい空間である」ということを一先ず念頭に置いて話を続けます。そしてエピローグではその海の底に見立てた冬の夜に周防姉妹が二人っきりで寄り添っていたということも同様に覚えておきましょう。

次に、第2話で周防姉妹が水族館に行ったシーンを見てみましょう。巴が水族館の水槽を眺めながら子供の頃の思い出を話すと、それに対して御影はこの水族館が母親が生きていて家族全員の仲が良かった頃の家族の象徴、つまりは「平和の象徴」だと言います。そして巴が幼い頃の思い出を懐かしそうに楽しそうに話す一方で、御影は楽しかっただけで退屈な思い出だと、巴はあの頃に戻りたいのかもしれないが自分はもう戻りたくないと言います。御影が戻るのを拒んでいるのが平和だった頃の家族であるなら、それは同時に巴が望む「普通」に仲のよい家族のことでもあります。御影がその「普通」の家族の象徴として水族館を見立てたのなら、この会話の交わされている背後にある水族館の水槽こそが「普通」の象徴である、ということになります。ここ注目すべきなのは、ここで描かれている水槽にいる魚は深海魚ではなく、恐らくは比較的浅い海に生息しているであろう魚だということです。言い換えれば、海の底(深海)ではない浅い海は、巴が本来望んでいた「普通」の場所ということになるのです。その他には水槽という枠に囚われた空間であることも「普通」ないしは「平和の象徴」にかかわっている要素ではありますが、ともあれここでは深海ではない浅い海は「普通」の場所であるということがここでは重要になってきます。

魚の見る夢における海、ないし水に関する主なシーンは上記の三つです。これらをまとめて考えると、魚の見る夢では海は深海とそうでない浅い海の二つに分けて考えられ、浅い海は巴にとって「普通」の場所、深海は「普通」ではない、巴にとって息苦しい場所ということになります。そしてエピローグではその深海で周防姉妹が二人っきりで寄り添っているのです。端的に言ってしまえば、周防姉妹は「普通」であった水族館、つまりは「家族」という枠組みから解放されることで、「普通」ではないあり方に二人で向かっていった(海になぞられた言い方をするなら沈んでいった)ことになります。

では、周防姉妹が何が「普通」ではなくなったのでしょうか。それはやはり、二人の関係性でしょう。筆者は魚の見る夢において百合が「普通」ではないことだと定義されていると言いたいわけではないと先述しました。ただ、周防姉妹の場合はそれに加えて血の繋がった姉妹同士での関係も持とうとしています。「一緒にいたいと思える人間同士であれば、互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」というのが、周防姉妹の選んだ答えでした。どのような関係性の変化があったとしても一緒に生きていきたいという二人の想いが、結果としてそうした関係性をより先鋭化させていったような形になっていったのでしょう。

深海は光の届かない、暗く寒い世界です。他の生物と遭遇する機会が近海に比べ極端に少ない、生きていくにはとても過酷な環境でもあります。では、周防姉妹がそんな世界にいるということは、二人が選んだ答えに対する罰なのでしょうか。筆者はそうは思いません。周防姉妹は冬の空を寒く辛い場所であると認めつつも、二人で寄り添ってその世界から離れようとはしませんでした。確かに二人が選んだ答えに他者が割り込む余地はなく、巴と御影は二人だけの世界に追いやられてしまったのかもしれません。しかし忘れてはならないのは、巴と御影はまず一緒にいられる相手としてお互いを選び、二人でならどのような関係性の変化があっても生きていけると考えたのです。二人の関係性は二人を他に誰もいない世界に追いやったかもしれませんが、それでもお互いがちゃんと傍にいるからこそ、二人には確かな未来が約束されています。エピローグの最後に描かれた観賞用の藻は、二人が共に生きてきた時間と、これから共に生きていく時間の双方を、それぞれ暗示しているのです。

 とまぁ、昔はこんな風に書いたわけです。書いたわけですが。今考えるとこれもなぁ、と思うわけですよ。「一緒にいたいと思える人間同士であれば、互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」とか書いてますが、これ要するに小川麻衣子先生の考える「家族」なんですよね。

つまり小川麻衣子先生のいう「家族の再生」とは「家族の再定義」なのです。限界まで家族という枠組みを破壊し、そこに属する者達を追い込んでいくことで、小川麻衣子先生なりの「家族」の必要十分条件を導き出したのです。「一緒にいたいと思える人間同士が互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」のであれば、それが姉妹だけでも、ましてや互いに愛し合って二人だけの世界へ沈んでいったとしても「家族」である、小川麻衣子先生はそう言い切ったわけです。

さて、この定義はあくまで『魚の見る夢』を解題するためだけのものなので、こちらを小川麻衣子作品全般に適用できるように改造してみましょう。するとこうなります。

小川麻衣子作品における「家族」とは、「そこに属する者達が合意の上で互いを縛り合い、その空間の中で生きると決めた枠組みの最小限の形態」です。より端的に言えば「相互的な束縛の肯定」でしょうか。

互いが互いを許容し合い、それによって発生した枠組みの中で生きていくという選択を自由意志の元に選択する。これは小川麻衣子先生の作品において通底してみられる思想ですが、これによって生まれる枠組みの最小形態こそが「家族」なのです(ちなみにこれを極大化すると、例えば『ぼっち侵略』の場合は地球とか港になります)。

このことから、先述した二つの疑問も解決することになります。なぜ「家族」という概念は小川麻衣子作品のテーマの近傍に配置されるのか。それは、小川麻衣子作品の思想の最小形態が「家族」であるからです。最小形態であるからこそ頻繁に用いることが可能であり、また一方で最小形態であるからこそ作品全体を網羅することができなかったのです。『ぼっち侵略』においてそれは大鳥先輩が赦されていくための枠組みの一つとして用意され、『てのひら創世記』では千絵や愛一郎が「自由」の元に選択するものの一つとして捉えられています。どちらもテーマそのものではありませんが、それを描くためのギミックとしては小川麻衣子先生が再定義した「家族」こそは最も適切なものだったのです。逆に言えば、『魚の見る夢』は2巻で完結したからこそ、家族という枠組みの中にテーマの全てを収めきることに成功したのです。

そして、なぜこれらの作品における「家族」はその大部分が不完全なものなのか。それは小川麻衣子先生が再定義した「家族」とは、束縛とその肯定という段階を経て完成されなければならないものだからです。この段階を踏むことこそが再定義された「家族」の要点である以上、「家族」を「完成」させるために既存の「家族」を破壊せざるを得なかったのです。

 

というわけで、小川麻衣子作品における「家族」とは小川麻衣子作品に通底する思想の最小形態でありながら、最小形態であるが故に『魚の見る夢』以外の作品においてはその全てを網羅し得なかった、というのが現状の結論ということになりそうです。なるほどー?

 

まぁあくまで備忘録ですので色々穴もあるでしょうし(途中で『ぼっち侵略』周りの説明少し省いちゃったしね)、時間が経ったらまた違う結論が出てきそうな気もしますが、現時点では取りあえずそういうことで。

 

ではでは。

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