時緒、かける少女(3)
(3)
4月。初めて着る高校の制服は、まだ固くて少し動き辛かった。
入学式の青箱高校は離れていてもすぐ分かるほど満開の桜に包まれている。
私は走っている。
他の新入生を追い越していく。
舞っていく桜の花びらを更に散らすように、風を切る。
私は走っている。
あのとき、走り去っていった男の子に自分を重ねていく。
探さないといけない。
あの人よりも早く。
私は走っている。
あの人よりも速く。
背中が見える。
ちゃんと覚えている。
同級生とは思えない、低い背丈。
私は、
「岬一くん!」
小さな背中が振り向く。
「おはよう、古賀さん」
私は、岬一くんに追いついた。
私が息をついて歩き出すまで、岬一くんはじっと待っていてくれた。時間に余裕がある中何故か全力で走って来た私を見る新入生の視線が少しだけ痛いけど、今は何よりも岬一くんが一緒に歩きだしてくれることが嬉しい。
正門に向かいながらどちらともなく始まった会話は、蓋を開けてみれば他愛のないものだった。朝何時に起きたか、家族とどんな会話を交わしたか、どんな朝食だったか。岬一くんは自分の家のこととなると一見不愛想なことを言うけれど、本当は家族のことがとても好きなんだということがすぐ分かってしまう。そんなちぐはぐで、でもまっすぐなところが良いと思えて、私も楽しくなる。
新入生の中に親しい1-2組のクラスメイトの顔も見え隠れしていることに気づく。教室に入ったらみんなといつものように笑い合える。柔らかい笑顔でみんなを和ませてくれる明石先生もきっと待っている。
何より、今は岬一くんが一緒だ。これから同じクラスで1年間共に過ごしていける。
これが私が欲しかったもの。私があの人より速く走れたから手に入れられたもの。
「ほら、もう正門だよ」
岬一くんが入学式の看板を指さす。
ここに入れば、私の願いが叶う――
「広瀬くん…?」
正門に入ろうというときに、後ろから声がかかった。聞き覚えのある……筈の声。でも知らない声だ。
二人で振り向く。
女の子がいた。
あの人だ。
……でも誰だろう。分からない。
「誰?」
岬一くんが言う。話しかけられたのは岬一くんの方なのに、彼にも覚えのない人らしい。
「知り合い?」
「いや、知らない人。いこ」
私の質問にもそんな風に返して、岬一くんはさっさと歩きだし、私もそれについていく。
「待って…!」
叫ぶような声が遠ざかる。
足音が聞こえる。走って追いかけようとしているのかもしれない。
でも、もう追いつかない。
私が先に追いついたから。
ううん、追いつかせない……!!
私の方が、速い!
ピシ、と何かがひび割れた気がした。
……桜の花びらが顔のすぐ横を吹き抜けていく。
何かを囁かれたような気がして立ち止まる。
振り返っても後ろには誰もいない。
「古賀さん?」
私が立ち止まったことに気づいた岬一くんが声をかけてきた。
「あ、なんでもない」
前を歩く岬一くんに慌てて追いつく。
まだ青箱高校の正門は遠い。二人で話せる時間は残っている。
二人で楽しめる次の話題は何だろうと考えながら、私はふと思う。
さっきの囁きは何だったんだろう。
短い音。耳に残る残響。
砕け散ったような余韻。
そんな、まさか。何も壊れてはいない。欲しいものはみんなここにあって、私はその時間を楽しんでいる。
忘れよう、きっと些細なことだ。
正門までの時間を少しでも無駄にしないために、私は今日の朝食はなんだったのか尋ねようと口を開いた。
~時緒、かける少女(4)へ続く~
時緒、かける少女(2)
(2)
時緒たち3人はお祭り初日を早めに切り上げた。下の二人が疲れてしまったからだ。普段ならまだまだ頑張れる筈だが、人ごみで体力を消耗したようだった。
「ふぅ……」
着物を綺麗に片づけ、一息つく。お祭りはまだまだ長く続くが、妹達と3人で動けるのは明日の日曜までだ。そこからは時緒も学校がある。
妹達を見に向かうと、二人とも既に寝てしまっていた。夕飯を食べ終えてから寝支度を整えるまでいつにない早業である。
灯りを消したまま二人にそっと近づいてみる。これだけ疲れた後だと明日はお祭りに行くのを嫌がるかな、とも思ったが、満足そうな寝顔を見てすぐ考えを改めた。これなら明日も元気よく楽しんでくれるだろう。早起きして今日よりも早く身支度をしてくれれば、次のイベントはもっと良い場所で観られるかもしれない。
暗い部屋で座って二人を眺めていたせいか、時緒自身も段々眠くなってきた。私も寝る準備をしないと、でも妹達の寝顔を見るのをやめるのもなんだか勿体ない……そんなことを考えているうちに、時緒は座ったまま寝息を立て始めていた。
眠りに落ちる寸前、帰る途中で吹き始めた夜風に首を竦めた記憶がよぎった。
着物で空いた首元をさらう風。季節が夏から冬に移りつつある。
あのとき、首に巻いていたマフラーの出番も近づいていた。
――時緒は真っ暗闇に立っていた。
何時からここにいたのかも分からない。振り返ることも座ることもできない気がして、棒立ちになったまま何もない空間を見つめている。
自分の服が陸上で使うユニフォームに変わっている。これから走るというのに縛っていない髪の毛の居心地が悪かった。
……走る?なんのために?
分からない。ただ自分は走らなければいけないという確信だけを頼りに、時緒は何かを待っていた。
やがて、闇の中から小さな人影が現れた。一筋の光もないというのに、小さな人影は形姿が明確に分かるように暗闇から浮かび上がってきたのだ。
「こんばんは、お姉ちゃん」
妹ではない、小さな女の子の声。鋭い笑みが三日月のように暗闇で閃く。
知っている。
時緒は思い出した。夏休み。雨。ウサギのリュックサック。東人町で途絶える記憶。
小さな大鳥先輩。
「待ってたんだ、お姉ちゃんのこと」
何故か不安はなかった。それよりただ焦らされている気がして、時緒は話しかけた。
「あなたは誰なの? ここはどこなの?」
「私が誰かなんて大したことじゃないわ。そしてここはまだどこでもない。でもこれからお姉ちゃんの望む場所になる」
「私の……望む場所?」
「そ! でもそのためには走らないとね。ここがそうなんだけど……移動しないといけないの」
女の子の言っていることはよく分からない。でも、それがスタートの合図であることは分かる。
「お姉ちゃんが速く速く走らないといけない。できるよね?」
返事をするよりも先に足が前に出ていた。いつも部活でやるような綺麗なスタートではなかったけれど、すぐ体が覚えている姿勢でゆっくりと走り始める。私の意志で。
「ねぇ、どこへ行くの?」
走りながら声をかける。女の子の方に向かっている筈なのに、その姿が一向に大きくならない。”速く走っていないからだ”と、心に囁く何かがいる。
「お姉ちゃんも私もずっとここにいるよ? ただ速さが必要なの。私は場所を提供しただけだから」
呼吸を意識する。腕の振りを、足のリズムと合わせていく。真っ暗なのに確かに感じる地面を蹴って、全速力に移行していく。
「私前からお姉ちゃんのこと見てたんだ。足、速いんだね。体育祭凄かったよ」
どこで見ていたんだろう。なんで私なんだろう。疑問が私の疾走に負けて暗闇に消えていく。
不意に、女の子の声が低くなった。
「でも、大鳥希ほどじゃない」
ゾクリとする。今日吹いた夜風の寒さを思い出す。今、私の首にマフラーはない。
岬一くんも、あのことを覚えていない。
でも私の代わりに。あの人が。
グッと顔を上げる。拳を強く握りしめる。
体が風を切り裂いていく感触を捉え始めた。
「あはは、凄い! その調子!」
女の子が笑う。
「ねぇ、どうして私なの!?」
一度心に浮かんだものと同じ問いが口をついて出た。何故繰り返したのだろう。女の子の姿がこんなにも近づいてきたからだろうか。
「理由は色々あるの。お姉ちゃんじゃないといけない理由がいっぱいあったから。でも一番は……お姉ちゃんが、”本当に”お姉ちゃんだったから、かな」
女の子は目の前まで迫っていた。私はどこまでも速くなって、暗闇までもが私に置いていかれそうになっている。
「さぁ、教えて。お姉ちゃんはどこに行きたい? 何をしたい?」
もう女の子に手が届く。私は走りながら手を伸ばす。
その前に、言葉が女の子に追いついた。
「私は、大鳥先輩よりも”早く”なりたい!」
ザッ、という音ともに時緒は女の子の脇を走り抜けた。横に避けた女の子はあっという間に時緒の後ろへ、暗闇の奥へと消えていく。
「いいわ、叶えてあげる。ここなら私は、神になれるから」
そんな声が聞こえるか聞こえないかの間に、時緒は暗闇を走り抜ける。
光がゴールとなって、時緒を迎え入れた。