時緒、かける少女(4)
(4)
入学式の朝ほど、期待と不安が入り混じる日はない。
私はその気持ちを言葉に変えて、岬一くんと共有し続けた。
その時間は短いようでとても長くて。
もう岬一くんに追いついたというのに、私はまだ走っているような心地だった。
正門が見えてくる。
次の話題が欲しくて、私は回りを見渡す。
時間がない焦りもあって、首にわざとらしく力を込めてグッと横を向いてみる。
そのとき、突風が私の正面から襲いかかった。
ザァッ、という音と共に私の髪の毛が舞い上がる。
首を撫でられる感触。
――寒い。
それで、きっかけを思い出した。
正門の前で立ち止まる。
そうだ。
私が岬一くんと最初に出会えたときのこと。
尋ねなければ。
「岬一くん」
岬一くんが不思議そうにこちらに振り向く。
ドキッとした。その顔に、自分の思っていたもの違う何かを感じる。
「あのね、覚えてる?受験のときのこと」
岬一くんはまだ答えない。
言わなくては。私から言わなくては。
だって――
「あ、あのときね、ひっかかったマフラーを取ってくれたよね。あのときのお礼が言いたくて、私」
「……そんなことあったっけ?」
――今までで一番しどろもどろになってしまった話題の切り出しは、その一言で止まってしまった。
なんで。
どうして。
「え……?」
ダメ、次の言葉が浮かんでこない。
広瀬くんの何気ない表情が、まるで私を責めているように見えてしまう。
違う。
何か違う、そんな筈ない。
それはちゃんと、そこにあったきっかけの筈なのに……。
あれ?
きっかけが、ない。
ピシリ、という音が耳元でハッキリと聞こえる。
なんで……なんで、私は岬一くんの名前を今知っているの?
岬一くんがこちらを見るのをやめた。
他の生徒と共に、正門に入っていく。
私を追い越していく新入生を視線で追う。
知っている。
でも知るのは今じゃない。
入学式の前なのに、私にみんなの名前が分かる筈がない。
これから知るはずなのに。
これがそのきっかけの筈なのに。
「きっかけなんてあるわけないじゃない」
声がする。あの小さな女の子の声だ。
「そんなもの、私には何もなかった」
姿は見えない。
「あの女だけじゃない、ここにきっかけなんて作らない、作らせない」
声だけが私の周囲をグルグルと回っている。
「それが、絆を奪うってことだから」
くらくらする。
「さぁ、手伝ってよ。きっかけさえなければ、お姉ちゃんの方が早い」
目の前が暗くなる中でハッとする。
その通りだ、私は速く走らないといけない……。
そうしないと、先に追いつけないから……。
ひび割れる音を忘れていく。
ゆらゆら、と足が動き出す。
あと一歩で、正門を抜ける。
重心がぐらりと前に倒れる。
岬一くんの、背中が近づく。
あの背中に、
バシン!
「痛い!」
顔をゆがめて岬一くんがのぞけった。
目の前に、私よりも先に岬一くんの背中を叩いた手があった。
手の主を視線で追う。
短い髪の毛、太い眉毛。
スガワラ君だ。
「おい広瀬……えーっと、弟? 何やってんだよー!」
「お前こそなんだよ! 痛いだろ!」
岬一くんとスガワラ君の言い合いが目の前で始まった。
「なんだよはないだろー! 可愛い女の子入学式早々に連れてさぁ! 正門でいきなり置いてくってのはないだろぉ?どうしたんだよ、その子」
「え?いや、別にそういうのじゃないから……」
「まーたその仏頂面ぁ! お前な、いくら青箱高校の女子はレベル高いっていったって、目の前の女の子一人ロクに抑えられないようじゃこの先やってられないぞ?」
「だから俺は凪と違って女子と接するのは苦手なんだよ! 色々事情があるの! もういいからあっちいけって! また後でな!」
「つれないなー。まぁいいか。女の子置いてっちゃうお前の背中見てたらなんかモヤモヤしたもんでな。スッキリした! 先に行ってるからなー」
「あぁ! クラス一緒だといいな!」
男子同士らしい勢いのある会話の応酬を終えて、スガワラ君は一足先に校舎に向かってしまった。
「ったくスガワラは変わらないな……ごめん古賀さん。行こうか?」
岬一くんがこちらを向き直る。
私は……足を止める。
「古賀さん?」
岬一くんがまた不思議そうな表情を浮かべている。
私はもう一度、思い出していた。
叩かれる広瀬くんの背中。
何かに吹っ切れた後ろ姿。
同じものを見たことがある。
『あの男の子はね…』
『自分でもよく分からないけど行かなきゃいけなかったみたいよ』
『行こうとしなきゃいけなかった…』
『あの女が一方的に望んだ関係で、傍から見れば確かに不釣り合いかもしれないけどね。あの男は自分からそれに見合う人間になろうとしてるのよ』
『あなたはどう?』
あの会話の次の日、文化祭のキャンプファイヤーの傍で、岬一くんを蹴り飛ばす先輩を見かけた。さっきのスガワラ君と同じくらい大きな音で蹴り飛ばしていて、思わずそっちを向いた。
先輩は何も言わずキャンプファイヤーを眺めていたけれど、それで本当に満足していたようだった。
あれを見て私は何を感じたのだろう。
先輩が岬一くんの背中を蹴るのを見ただけだったのに、それ以来、私は少し楽になった。
今振り返ると、あまり褒められた気の持ち直し方ではなかったのかもしれない。
私は岬一くんの背中なんか蹴れない。だからあの風景に自分を託してしまったのかもしれない。
たったそれだけ、それだけで私は楽になった。
でもどうだっただろう?
私の始まりもおんなじくらい些細なことだったんじゃないだろうか?
小さなことにつまづいて、助けられて。
私はそうして元気になったり落ち込んだりする。
あのとき私のささやかな想いは終わってしまったのかもしれないけど、代わりに始められたものがある。
忘れてしまうような小さなきっかけの積み重ねで今の私がある。
忘れられないきっかけもあるけど、どちらがより大事なんてことはなかったんだ。
私は、捨てられない。
……もう捨てるためには、走れない。
「ごめん岬一くん、私忘れ物しちゃったみたい」
「え?」
「だから取ってくるね!」
踵を返す。幸いまだ大鳥先輩の姿は見えない。
「あ、待って! 先生に聞いた方が良いって! 入学式までそんなに時間ないよ!?」
「大丈夫! 私、足は速いから! 絶対に間に合う! だから待ってて!」
私は走り出す。今度は最初から全速力。
正門から飛び出して、家を目指して速度を上げていく。
ここから出ないといけない。
私には、きっかけが必要だから。
ピシ。
もう音を聞き逃すことはない。
空に、地面に、ガラスのようなひび割れが走る。
これは、夢が割れる音だ。
ピシャアアアアアアアアアアアアア!
今度は、落ちる側。
私は割れた夢の狭間に落ちていった。