時緒、かける少女(5)
(5)
「どうして逃げたの、お姉ちゃん」
私は最初と同じ真っ暗闇の中に立っていた。
目の前に、小さな大鳥先輩がいる。
小さな女の子とは思えないような恐ろしい、憤怒の表情だ。
「逃げなければあそこにいられたのに! 大鳥希よりも先に広瀬岬一が欲しくないの!?」
「ごめんね。私、きっかけを捨てられないの」
怖い。怖いけど、ハッキリと言わないといけなかった。
「だってきっかけがなければ、私は岬一くんと一緒に居たいと思うことすらなかったんだもの。それが叶わないかもしれないとしても、私は同じだけの、別のきっかけで立ち直れた。だから、いいの。私はここにはいたくない」
「ふざけるな! お前もあいつと同じだ! きっかけがあるからそうして幸せそうな顔をしていられるんだ! 私には、私にはそんなもの、一つもなかったっていうのに……!!」
ああ、と思う。
そうか、この子はきっかけを一つも得られなかったんだ。だからあそこにきっかけを作ることも、私の中のきっかけに気づくこともできなかった。
なんて可哀想なんだろう。きっかけを知らないからあれを作ることができたのに、きっかけを知らないからあれを守ることもできなかったんだ。
「もういい! お姉ちゃん無しでも私一人で大鳥希に悪夢を見せることはできる! 折角のトッピングが台無しだ……!」
闇が色を濃くしていく。小さな大鳥先輩が私に向かって歩き出す。
「全て済んだら大人しくここから出してやろうと思っていたがもうやめだ! 憂さ晴らしだ、ありったけの悪夢を見せてやる……!」
憎しみを顔いっぱいに貼りつけて、女の子が近づいてきた。
逃げなくては。あの入学式からだけじゃない、この真っ暗闇からも抜け出さないと。
私は小さな大鳥先輩に背を向けて走り出した。
「逃がさないわよ!ここは私の空間だ!」
ここに来てからどのくらい走っただろう。もう時間も回数も思い出せない。
何度目かの全力疾走。何もない闇の中を進み続ける。
――体が重い。
行きの速さが嘘のようだ。
向かい風のように、闇が私の前進を阻んでくる。
歯を食いしばる。前進で抗う。
見えない何かが私の手足を絡み取ろうとしてくる。
理想的なフォームが取れなくなっていく。それでも足を前に出す。
真っ暗闇の終わりは見えない。寧ろ一層濃くなっているかのようだ。
顎が上がってしまう。首が左右に揺れるのを感じる。
止まってはいけない。あの女の子に捕まってしまう。
後ろを振り向くこともできない。
いや、振り向いてはいけない。きっと少しも逃げきれていない。
今後ろを向いたらもう走れない――!
「諦めなさい! どうせここに出口なんてないのよ!」
女の子の怒声がすぐ後ろで聞こえる。
目の前闇は、手が届くくらいの距離感も掴めないくらいに深い。
足元もおぼつかない。
ダメだ、捕まる。
助けて。
ドクン。
自分のものではない心臓の鼓動が、闇を揺らした。
背後の闇が赤い光に散らされる。
背中を切り刻むような恐怖が薄れた。
足を止めて振り返る。
私から少し離れた場所で小さな大鳥先輩も後ろを見ていた。
その向こうで。
真っ赤な炎が闇を焼いていた。
空を目指してまっすぐに燃え立つ紅蓮が、そのまま周囲の暗闇を脅かし、やがて白く染め上げていく。
炎は上に昇っていく。
あの炎はどこへ行くのだろう。
「しまった……!」
小さな大鳥先輩は焦ったようにそう言うと、炎の方に向かっていく。
今だ。
私は再び走り出した。
目の前に視線を移す。
明るくなっていく薄暗い空間の先に、光が差し込む切れ目があった。
あそこが出口だ。
ラストスパート、これでここから抜け出せる。
外へ。
後ろの炎がもう見上げるところまで昇ってしまったのを感じる。
炎は上へ、私は前へ。
違う方向へ一直線に。
切れ目はもう目前だ。
右手を伸ばす。
何もなかった空間の中で確かな手ごたえがあった。
切れ目を掴んで引きのばす。
光が広がっていく。
「いっけえええええええええええええええ!!」
私はそこへ飛び込んだ。
炎の熱を感じる。
渡された沢山のカイロ。一緒に沸かした文化祭のコーヒー。
彼はきっと別の道へ、違うものを目指して進んでいる。
追いつくも何も、もう歩む方向が違う。
熱はいずれ感じられなくなって、彼方に光る灯りを見つめるだけになるのだろう。
だとしても、構わない。
あの熱の温かさを私はちゃんと覚えている。
言い訳なんかじゃなく、私はそれでやっていけるから。
そんなことが、ささやかだけれど、嬉しかった。
~時緒、かける少女(6)へ続く~
時緒、かける少女(4)
(4)
入学式の朝ほど、期待と不安が入り混じる日はない。
私はその気持ちを言葉に変えて、岬一くんと共有し続けた。
その時間は短いようでとても長くて。
もう岬一くんに追いついたというのに、私はまだ走っているような心地だった。
正門が見えてくる。
次の話題が欲しくて、私は回りを見渡す。
時間がない焦りもあって、首にわざとらしく力を込めてグッと横を向いてみる。
そのとき、突風が私の正面から襲いかかった。
ザァッ、という音と共に私の髪の毛が舞い上がる。
首を撫でられる感触。
――寒い。
それで、きっかけを思い出した。
正門の前で立ち止まる。
そうだ。
私が岬一くんと最初に出会えたときのこと。
尋ねなければ。
「岬一くん」
岬一くんが不思議そうにこちらに振り向く。
ドキッとした。その顔に、自分の思っていたもの違う何かを感じる。
「あのね、覚えてる?受験のときのこと」
岬一くんはまだ答えない。
言わなくては。私から言わなくては。
だって――
「あ、あのときね、ひっかかったマフラーを取ってくれたよね。あのときのお礼が言いたくて、私」
「……そんなことあったっけ?」
――今までで一番しどろもどろになってしまった話題の切り出しは、その一言で止まってしまった。
なんで。
どうして。
「え……?」
ダメ、次の言葉が浮かんでこない。
広瀬くんの何気ない表情が、まるで私を責めているように見えてしまう。
違う。
何か違う、そんな筈ない。
それはちゃんと、そこにあったきっかけの筈なのに……。
あれ?
きっかけが、ない。
ピシリ、という音が耳元でハッキリと聞こえる。
なんで……なんで、私は岬一くんの名前を今知っているの?
岬一くんがこちらを見るのをやめた。
他の生徒と共に、正門に入っていく。
私を追い越していく新入生を視線で追う。
知っている。
でも知るのは今じゃない。
入学式の前なのに、私にみんなの名前が分かる筈がない。
これから知るはずなのに。
これがそのきっかけの筈なのに。
「きっかけなんてあるわけないじゃない」
声がする。あの小さな女の子の声だ。
「そんなもの、私には何もなかった」
姿は見えない。
「あの女だけじゃない、ここにきっかけなんて作らない、作らせない」
声だけが私の周囲をグルグルと回っている。
「それが、絆を奪うってことだから」
くらくらする。
「さぁ、手伝ってよ。きっかけさえなければ、お姉ちゃんの方が早い」
目の前が暗くなる中でハッとする。
その通りだ、私は速く走らないといけない……。
そうしないと、先に追いつけないから……。
ひび割れる音を忘れていく。
ゆらゆら、と足が動き出す。
あと一歩で、正門を抜ける。
重心がぐらりと前に倒れる。
岬一くんの、背中が近づく。
あの背中に、
バシン!
「痛い!」
顔をゆがめて岬一くんがのぞけった。
目の前に、私よりも先に岬一くんの背中を叩いた手があった。
手の主を視線で追う。
短い髪の毛、太い眉毛。
スガワラ君だ。
「おい広瀬……えーっと、弟? 何やってんだよー!」
「お前こそなんだよ! 痛いだろ!」
岬一くんとスガワラ君の言い合いが目の前で始まった。
「なんだよはないだろー! 可愛い女の子入学式早々に連れてさぁ! 正門でいきなり置いてくってのはないだろぉ?どうしたんだよ、その子」
「え?いや、別にそういうのじゃないから……」
「まーたその仏頂面ぁ! お前な、いくら青箱高校の女子はレベル高いっていったって、目の前の女の子一人ロクに抑えられないようじゃこの先やってられないぞ?」
「だから俺は凪と違って女子と接するのは苦手なんだよ! 色々事情があるの! もういいからあっちいけって! また後でな!」
「つれないなー。まぁいいか。女の子置いてっちゃうお前の背中見てたらなんかモヤモヤしたもんでな。スッキリした! 先に行ってるからなー」
「あぁ! クラス一緒だといいな!」
男子同士らしい勢いのある会話の応酬を終えて、スガワラ君は一足先に校舎に向かってしまった。
「ったくスガワラは変わらないな……ごめん古賀さん。行こうか?」
岬一くんがこちらを向き直る。
私は……足を止める。
「古賀さん?」
岬一くんがまた不思議そうな表情を浮かべている。
私はもう一度、思い出していた。
叩かれる広瀬くんの背中。
何かに吹っ切れた後ろ姿。
同じものを見たことがある。
『あの男の子はね…』
『自分でもよく分からないけど行かなきゃいけなかったみたいよ』
『行こうとしなきゃいけなかった…』
『あの女が一方的に望んだ関係で、傍から見れば確かに不釣り合いかもしれないけどね。あの男は自分からそれに見合う人間になろうとしてるのよ』
『あなたはどう?』
あの会話の次の日、文化祭のキャンプファイヤーの傍で、岬一くんを蹴り飛ばす先輩を見かけた。さっきのスガワラ君と同じくらい大きな音で蹴り飛ばしていて、思わずそっちを向いた。
先輩は何も言わずキャンプファイヤーを眺めていたけれど、それで本当に満足していたようだった。
あれを見て私は何を感じたのだろう。
先輩が岬一くんの背中を蹴るのを見ただけだったのに、それ以来、私は少し楽になった。
今振り返ると、あまり褒められた気の持ち直し方ではなかったのかもしれない。
私は岬一くんの背中なんか蹴れない。だからあの風景に自分を託してしまったのかもしれない。
たったそれだけ、それだけで私は楽になった。
でもどうだっただろう?
私の始まりもおんなじくらい些細なことだったんじゃないだろうか?
小さなことにつまづいて、助けられて。
私はそうして元気になったり落ち込んだりする。
あのとき私のささやかな想いは終わってしまったのかもしれないけど、代わりに始められたものがある。
忘れてしまうような小さなきっかけの積み重ねで今の私がある。
忘れられないきっかけもあるけど、どちらがより大事なんてことはなかったんだ。
私は、捨てられない。
……もう捨てるためには、走れない。
「ごめん岬一くん、私忘れ物しちゃったみたい」
「え?」
「だから取ってくるね!」
踵を返す。幸いまだ大鳥先輩の姿は見えない。
「あ、待って! 先生に聞いた方が良いって! 入学式までそんなに時間ないよ!?」
「大丈夫! 私、足は速いから! 絶対に間に合う! だから待ってて!」
私は走り出す。今度は最初から全速力。
正門から飛び出して、家を目指して速度を上げていく。
ここから出ないといけない。
私には、きっかけが必要だから。
ピシ。
もう音を聞き逃すことはない。
空に、地面に、ガラスのようなひび割れが走る。
これは、夢が割れる音だ。
ピシャアアアアアアアアアアアアア!
今度は、落ちる側。
私は割れた夢の狭間に落ちていった。