ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

備忘録:小川麻衣子作品と家族について~つまり『魚の見る夢』が大切ってことですよ奥さん~

※本記事は備忘録として書かれており、こう、とてもノリのセカイです。

※9/11発売の『てのひら創世記』1巻他、小川麻衣子作品のネタバレあります。

 

こんにちは、さいむです。

前回の記事以降脳味噌に活力が戻ってきたのか、何をしていてもふと『てのひら創世記』や小川麻衣子作品のことを無意識に考えてしまうようになってきました。気づいたら頭が勝手にアレコレ考えを進めてくれるので、久しぶりにこういう感覚が戻ってきたなぁと嬉しい毎日です。

で、今回はそんな風に考えたことを書き留めた備忘録となります。『魚の見る夢』の話も久しぶりにするよ!

 

小川麻衣子先生の作品において共通するテーマとは端的に何か。こういう話になった際によく見かけるものが何かというと「家族」だったりします。小川麻衣子先生が頻繁にボーイミーツガールを描く都合上家族云々の話が射程に入りやすいというのもありますが、小川麻衣子作品においては大抵家族が重要な要素として描かれることは確かに多いです。

ただ、小川麻衣子作品では家族が絶対に必要なものなのか、と言われると割とそうとは限らないよね、というのが今回の話の内容だったりします。

例えば『ぼっち侵略』。この作品において、家族という枠組みは広瀬くんが地球侵略に加担する最初の動機であり、また大鳥先輩にとっても家族という概念の理解が、彼女の成長にとって一つの要点となっています。

そして『てのひら創世記』。この作品でも、千絵と愛一郎にとって大事なものは家族であるとはっきり描かれています。

じゃあ家族が小川麻衣子先生の作品の重要なポイントって事でもう良いじゃん! 何がいけないの!? となるわけですが。そうは問屋が卸さないわけです。

まず第一に、『ぼっち侵略』の主要なテーマとは「赦し」であり(詳しくは弊ブログの他記事参照)、『てのひら創世記』の現時点におけるテーマは(おそらくは)「自由」です(これについてはコチラから)。家族という概念は双方において重要ではありますが、それはあくまでも最終的なテーマへと繋げていくためのギミックであって、それのみで作品全体を包括しうるとは言い切れない部分があります。

第二に、これらの作品で登場する家族はその大部分が不完全なものになっています。『ぼっち侵略』では両親を喪っている広瀬くんは勿論、他のオルベリオ人のほとんどが星と共に消えてしまった大鳥先輩、家族から離れて単身日本へやって来たアイラと、みな家族の誰かが欠けている状態なのです。『てのひら創世記』についてもこれは同様で、父親が家から蒸発した愛一郎と、たった一人で愛一郎の元を訪れた千絵と、ぼっち侵略のそれをある程度踏襲した家族の様子が描かれています。家族それ自体を描くことが目的なら、不完全な家族ばかりを描くのは不自然です。

以上のポイントからも、ほとんどの小川麻衣子作品において家族は決してその全てを包括しうる要素ではないことが分かります。ですが、では何故小川麻衣子作品において家族とはそれほどテーマの近傍に配置される要素であり、またその大部分が不完全なものなのでしょうか。

そこで登場するのが、そう、みんな大好き『魚の見る夢』なのです。小川麻衣子作品における「家族」を解題する鍵は、この作品が全て握っていると言っても過言ではありません。マジで。

何せ、2巻巻末のあとがきで小川先生ご自身が「百合といいつつ、テーマは『家族の再生』でした」と言っているくらいなのでこれは間違いないです。ただ気をつけないといけないのは、ここでいう家族はどのようなもので、登場人物達は何を以て家族が再生されたと考えたのか、ということです。

さて、『魚の見る夢』について一から書いていくと端的に言って死ぬので、ここは過去の自分の遺産に頼るとしましょう。いでよ!

thursdayman.hatenablog.com

うーん読み直すと大変頭痛がひどくなる……書き直してぇ……。

ともあれこの約3万文字のおぞましき何かから、必要なものをピックアップしていきましょう。

まずは引用引用っと。長いよ。

魚の見る夢エピローグ「ある夜の日」では、恐らくは最終話以降の周防姉妹の、ある冬の夜の様子が描かれています。4ページ程の短いエピローグですが、これはこれで重要なお話なのでしっかり追っていきましょう。

ある夜、窓の外で雪が降り始めた頃に、二人の会話が始まります。季節折々に変わる空気の重さについて御影が話し始め、巴は1巻で御影が買ってくれた観賞用の藻の水を入れ替えながらその話に応じます。その後二人は雪の降り積もっていくベランダに出て、次のような会話を交わします。

「透明な水の底にいるみたいで手も耳も痛くて身体中がちぎれそう」

「水の底…そういえば海の底にも雪が降るっていうよね」

「そうなの?」

そうして巴が寒くなってきたから戻ろうと提案するも、御影は巴に寄り添いながらもう少しだけ外にいようと提案。二人は次第に頭に雪が積もり始める中、寒さに耐えて雪の降る夜空を眺めています。最後にもう一度観賞用の藻がアップになったところで、エピローグ「ある夜の日」は終わります。

本題に入る前に、一度状況をまとめておきましょう。まず本編終了後と先述しましたが、具体的にどれぐらいの時間が経った頃かは不明です。卒業式、二人が旅行(?)から帰ってきた後に雪が降ったのでないとすれば半年以上の時間が経っていることになります。次に二人のいる場所ですが、恐らくは自宅で間違いないでしょう。自宅には一応2階にベランダがあるので(2巻128P参照)、その一室で交わされたやり取りと考えるのが自然なはずです。総合すると、最終話の後、巴は大学1年生に、御影は2年生になった後の真冬の頃と考えるのが一番無難ということになります。

さて、このエピローグで最も重要視すべき箇所、それは先ほど抜粋した会話の部分です。一見空気の重さ、息苦しさを水や海に例えて放して見せただけの部分に見えますが、ここには魚の見る夢のテーマにかかわる重要なヒントが隠されています。それを解き明かしていくために、一度1巻の冒頭まで立ち返り、魚の見る夢における「水」、ないしは「海」に関する描写を振り返っていきたいと思います。

第1話の冒頭で、巴は自分が魚になり、海の底で首輪に釣られようとする夢を見ます。ここで巴が海の底について「息苦しい」と言っていることが重要です。この息苦しさはエピローグで御影が言っていた空気の重苦しさにも繋がるもので、ここでは「魚の見る夢において海の底は息苦しい空間である」ということを一先ず念頭に置いて話を続けます。そしてエピローグではその海の底に見立てた冬の夜に周防姉妹が二人っきりで寄り添っていたということも同様に覚えておきましょう。

次に、第2話で周防姉妹が水族館に行ったシーンを見てみましょう。巴が水族館の水槽を眺めながら子供の頃の思い出を話すと、それに対して御影はこの水族館が母親が生きていて家族全員の仲が良かった頃の家族の象徴、つまりは「平和の象徴」だと言います。そして巴が幼い頃の思い出を懐かしそうに楽しそうに話す一方で、御影は楽しかっただけで退屈な思い出だと、巴はあの頃に戻りたいのかもしれないが自分はもう戻りたくないと言います。御影が戻るのを拒んでいるのが平和だった頃の家族であるなら、それは同時に巴が望む「普通」に仲のよい家族のことでもあります。御影がその「普通」の家族の象徴として水族館を見立てたのなら、この会話の交わされている背後にある水族館の水槽こそが「普通」の象徴である、ということになります。ここ注目すべきなのは、ここで描かれている水槽にいる魚は深海魚ではなく、恐らくは比較的浅い海に生息しているであろう魚だということです。言い換えれば、海の底(深海)ではない浅い海は、巴が本来望んでいた「普通」の場所ということになるのです。その他には水槽という枠に囚われた空間であることも「普通」ないしは「平和の象徴」にかかわっている要素ではありますが、ともあれここでは深海ではない浅い海は「普通」の場所であるということがここでは重要になってきます。

魚の見る夢における海、ないし水に関する主なシーンは上記の三つです。これらをまとめて考えると、魚の見る夢では海は深海とそうでない浅い海の二つに分けて考えられ、浅い海は巴にとって「普通」の場所、深海は「普通」ではない、巴にとって息苦しい場所ということになります。そしてエピローグではその深海で周防姉妹が二人っきりで寄り添っているのです。端的に言ってしまえば、周防姉妹は「普通」であった水族館、つまりは「家族」という枠組みから解放されることで、「普通」ではないあり方に二人で向かっていった(海になぞられた言い方をするなら沈んでいった)ことになります。

では、周防姉妹が何が「普通」ではなくなったのでしょうか。それはやはり、二人の関係性でしょう。筆者は魚の見る夢において百合が「普通」ではないことだと定義されていると言いたいわけではないと先述しました。ただ、周防姉妹の場合はそれに加えて血の繋がった姉妹同士での関係も持とうとしています。「一緒にいたいと思える人間同士であれば、互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」というのが、周防姉妹の選んだ答えでした。どのような関係性の変化があったとしても一緒に生きていきたいという二人の想いが、結果としてそうした関係性をより先鋭化させていったような形になっていったのでしょう。

深海は光の届かない、暗く寒い世界です。他の生物と遭遇する機会が近海に比べ極端に少ない、生きていくにはとても過酷な環境でもあります。では、周防姉妹がそんな世界にいるということは、二人が選んだ答えに対する罰なのでしょうか。筆者はそうは思いません。周防姉妹は冬の空を寒く辛い場所であると認めつつも、二人で寄り添ってその世界から離れようとはしませんでした。確かに二人が選んだ答えに他者が割り込む余地はなく、巴と御影は二人だけの世界に追いやられてしまったのかもしれません。しかし忘れてはならないのは、巴と御影はまず一緒にいられる相手としてお互いを選び、二人でならどのような関係性の変化があっても生きていけると考えたのです。二人の関係性は二人を他に誰もいない世界に追いやったかもしれませんが、それでもお互いがちゃんと傍にいるからこそ、二人には確かな未来が約束されています。エピローグの最後に描かれた観賞用の藻は、二人が共に生きてきた時間と、これから共に生きていく時間の双方を、それぞれ暗示しているのです。

 とまぁ、昔はこんな風に書いたわけです。書いたわけですが。今考えるとこれもなぁ、と思うわけですよ。「一緒にいたいと思える人間同士であれば、互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」とか書いてますが、これ要するに小川麻衣子先生の考える「家族」なんですよね。

つまり小川麻衣子先生のいう「家族の再生」とは「家族の再定義」なのです。限界まで家族という枠組みを破壊し、そこに属する者達を追い込んでいくことで、小川麻衣子先生なりの「家族」の必要十分条件を導き出したのです。「一緒にいたいと思える人間同士が互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」のであれば、それが姉妹だけでも、ましてや互いに愛し合って二人だけの世界へ沈んでいったとしても「家族」である、小川麻衣子先生はそう言い切ったわけです。

さて、この定義はあくまで『魚の見る夢』を解題するためだけのものなので、こちらを小川麻衣子作品全般に適用できるように改造してみましょう。するとこうなります。

小川麻衣子作品における「家族」とは、「そこに属する者達が合意の上で互いを縛り合い、その空間の中で生きると決めた枠組みの最小限の形態」です。より端的に言えば「相互的な束縛の肯定」でしょうか。

互いが互いを許容し合い、それによって発生した枠組みの中で生きていくという選択を自由意志の元に選択する。これは小川麻衣子先生の作品において通底してみられる思想ですが、これによって生まれる枠組みの最小形態こそが「家族」なのです(ちなみにこれを極大化すると、例えば『ぼっち侵略』の場合は地球とか港になります)。

このことから、先述した二つの疑問も解決することになります。なぜ「家族」という概念は小川麻衣子作品のテーマの近傍に配置されるのか。それは、小川麻衣子作品の思想の最小形態が「家族」であるからです。最小形態であるからこそ頻繁に用いることが可能であり、また一方で最小形態であるからこそ作品全体を網羅することができなかったのです。『ぼっち侵略』においてそれは大鳥先輩が赦されていくための枠組みの一つとして用意され、『てのひら創世記』では千絵や愛一郎が「自由」の元に選択するものの一つとして捉えられています。どちらもテーマそのものではありませんが、それを描くためのギミックとしては小川麻衣子先生が再定義した「家族」こそは最も適切なものだったのです。逆に言えば、『魚の見る夢』は2巻で完結したからこそ、家族という枠組みの中にテーマの全てを収めきることに成功したのです。

そして、なぜこれらの作品における「家族」はその大部分が不完全なものなのか。それは小川麻衣子先生が再定義した「家族」とは、束縛とその肯定という段階を経て完成されなければならないものだからです。この段階を踏むことこそが再定義された「家族」の要点である以上、「家族」を「完成」させるために既存の「家族」を破壊せざるを得なかったのです。

 

というわけで、小川麻衣子作品における「家族」とは小川麻衣子作品に通底する思想の最小形態でありながら、最小形態であるが故に『魚の見る夢』以外の作品においてはその全てを網羅し得なかった、というのが現状の結論ということになりそうです。なるほどー?

 

まぁあくまで備忘録ですので色々穴もあるでしょうし(途中で『ぼっち侵略』周りの説明少し省いちゃったしね)、時間が経ったらまた違う結論が出てきそうな気もしますが、現時点では取りあえずそういうことで。

 

ではでは。

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見えた。(8/14加筆訂正・追記)

【注意】

①これは極めて突発的に、かつ発作的に書かれた文章です。つまり雑です。後々色々変わる可能性があります。ご了承ください。

②未だ1巻未発売の『てのひら創世記』について、ゲッサン2020年9月号(8月12日発売)の最新話を含めたネタバレがあります。この先を読む際はその点もご了承ください。

③(9/13加筆):本記事を『てのひら創世記』一巻までの情報で再構成した記事を執筆しました。コチラからどうぞ。

 

こんにちは、さいむです。

今回は生存報告を兼ねて、『てのひら創世記』について少し書いていきます。

 

さて、最後のブログ更新が4ヶ月前でその間何をしていたのかという話ですが、ずっと『てのひら創世記』を読んでいました。

読み続けていました。

それなのに何故更新できなかったのかと言えば話は単純で、「書くことが何も思いつかなかったから」です。

ちょっとこのブログを更新している人間の心情の吐露としては我ながら信じられないものがありますが、事実だから仕方がない。

『てのひら創世記』の2話以降、私はどうしてもこの作品に語るべきラインを見出すことができませんでした。

小川麻衣子先生が描く物語としての手触りは確かにある。キャラクターの言動や心情も過去作品のそれによく一致する。確かに「いつもの」小川麻衣子先生の作品である筈の『てのひら創世記』は、しかしこの物語が何によって駆動しているか、という「テーマ」の存在が異常に希薄だったのです。

方向性がない。『ぼっち侵略』の頃ならばとっくの昔に何度も出ている筈の「これからどうしたいか」というキャラクターの強い願いや方針がない。彼らに課された当面の課題も曖昧で、毎話何が起こっているのか、何かが進んだのかどうかも判別がつかない。

『ぼっち侵略』において小川先生がそのテーマを強固なまでに制御しきっていたことを考慮するならば、恐らくこれらは全て意図的にそう仕組まれたものである筈です。けれども、その狙いを示唆するものはさっぱり見えない。何がしたいのか分からない……。

最新話が公開される度に食い入るように内容を読み漁り、ついでに全話読み直し、やがて疲れて止めてしまう。もしかしたら自分の読み落としがあるかもと思うだけでろくに眠ることもできず、そんな苦悩が話数の累積と共に増大していきました。

 

そして、ゲッサン2020年9月号です。いつものように内容を流し見したところで、すぐに気づきました。――間違いない。テーマが語られている。

咄嗟に別の可能性も頭をよぎりました。勘違いなどということはまずあり得ないにしても、今までの小川先生の悪辣さ(もの凄く超褒めてる)を考えるとこれさえも罠の可能性があるのではないか。ここから更により本質的な部分に斬り込んでいく前座に過ぎないのではないか、と。

しかし、この第2章第4節「未知との遭遇」こそ、今までの『てのひら創世記』という物語が何であったかを総括している話であることに少なくとも間違いはありませんし、ここを土台とする限りはテーマが変遷したとしても読み間違うことはない筈です。過去の小川麻衣子作品からのテーマの連続性を考慮しても辻褄が合います。

小川麻衣子先生がここまでテーマそのものの開示を拒み続けたのは未だにちょっと不思議ですが(実を言うと説明できなくはない)、ともあれこれでようやく私と私のブログはスタートラインに立てました。感想を書いていこうと思います。

 

で、ここからは『てのひら創世記』のテーマについて簡潔にまとめていこうと思います。『てのひら創世記』のテーマ、それは恐らく、

 

 

 

「自由」です。

 

「私が好きなんだ剣術が!」

「剣と一つになって動けた時とても気持ちがいいんだ!見たことのないところへ私を連れて行ってくれる。自由になれる。」

「君は鳥だけど自由じゃないの?」

 

少なくとも、このタイミングでこの台詞を千絵に語らせるということはそういうことなのでしょう。彼女自身の新たな目標も垣間見えましたし、一気に物語の方向性がはっきりと明示されました。

 

さて、本来なら私は最新話の意味ありげな台詞へとただ闇雲に飛びついたのではないことを示すべく色々と根拠を語る必要があるわけですが、その前に小川麻衣子作品における「自由」とは何であるかを考えなければなりません。

 

まず大事なポイントとして、小川麻衣子作品における「自由」とは「何にも縛られないこと」を必ずしも指しません。それは「自分にとって価値のあるものを、自分の意思でつかみ取ること」です。そしてこのことを強調するために、この「自由」は寧ろ、「不自由」な環境で生きるという選択を取れることこそが「自由」であるかのようにも描かれます。

ここでは『ぼっち侵略』をその例として挙げてみましょう。主人公の広瀬くんは祖父の珈琲店を継ぐことに憧れ、自ら望んでその道を進んでいきます。宇宙や宇宙人といった広い世界、宇宙人や魔法に基づく超常的な力、子供ならではの自由な時間、自分の知らない未知なる可能性、そういったものに彼は一切後ろ髪を引かれることがありません。そしてヒロインの大鳥先輩も、宇宙人として強大な力を振るい自由奔放に生きてみせながら、その実は人間として生きることを何よりも望むようになっていきました。他のキャラクターも挙げていくと枚挙に暇がありませんが、ともあれぼっち侵略において「自由」とはそのように扱われています。例え何かに強制された道であっても、他の誰かによって予め敷かれたレールであっても、その上を自らの意思で進むことこそが「自由」なのです。

対して真にしがらみからの解放を望む者達は、結果的に全てを破壊することでしか望んだ形の自由を手にできなくなります。ゾキやマハは、過去や未来の一切を破壊することでしか今に価値を見出すことができなかったために、広瀬くん達と対立し、やがて敗北していきました。それほどまでに、小川麻衣子作品において「自由」とは価値の在処と密接に結びついているのです。

 

また、『ぼっち侵略』という作品のテーマに関しても「自由」とは大きな問題になり得る要素でした。これに関してはテーマとの単なる結びつきというよりは、テーマを実践する上である程度犠牲にならざるを得なかったものこそが「自由」と言えるかもしれません。『ぼっち侵略』の中心的なテーマは『赦し』でした。これに関する詳細は弊ブログの他の記事に任せるとして、問題はそのテーマを実践するに当たって、その中心たる大鳥先輩の「自由」が奪われざるを得なかった、という点にあります。

大鳥先輩は他者及び他者という概念と触れ合うことなく生きてきた少女であり、『ぼっち侵略』ではそのことを前提とすることで、「赦し」というテーマを大鳥先輩の成長と共に段階的に描くことが可能になっていました。逆に言えば大鳥先輩の他者と触れあい、他者を知っていく成長の過程は物語のテーマに強く要請されたものであり、その意味において大鳥先輩は物語のテーマの体現者として、常にテーマに縛られ続ける存在でもありました。一見して自由に振る舞っているように見える彼女の言動は、実は常にテーマによって徹底して管理されるものでなければならなかったのです。このことは大鳥先輩の具体的な成長段階が作品において常に秘匿されるような描き方をされている点から逆説的に導き出すことが可能であり、またこれによって大鳥先輩から少なからず損なわれたものも存在します。

 

そう、ラブコメです。

 

アイラと龍介のカップリングの方が所謂ラブコメの最大瞬間風速としては高いということはこのブログでもチラホラ言ってきたような……そうでもないような気もします。これについて改めて説明しておくと、元々大鳥先輩と広瀬くんの関係は作品に設定されたテーマの完走を主軸に置いたものでした。3,5巻の古賀さんや9巻の針山くんによって発生したラブコメ展開でさえも作品のテーマを次の段階に進める上で必要な葛藤を描くために投入された一面を持っていたほどです(そのため、この辺りは弊ブログでも強めに解説を入れています)。一方でその軛の外にあった龍介はアイラに対して比較的自由にアプローチすることが可能になり、結果としてこの二人の関係性は主人公とヒロインのそれよりも、所謂「てぇてぇ」ものになっていました。

私個人は寧ろテーマを初志貫徹したことの方が面白いと思う人間ではありますが、少なくともこの点において、『ぼっち侵略』はその戦略をある程度間違えていたと言うことは可能かもしれません。それを傍証するかのように、大鳥先輩や広瀬くんの住む世界(地球)を守り、また二人に守られてきた存在でもある「港」は、作品のテーマこそがあるいは二人を縛っていたものの正体であることを認めるがごとく砕け散り、最後は成長した二人を自由な世界へと解き放ちました。そして『てのひら創世記』という作品は、そうした問題の解決をこそ焦点としてスタートすることになるのです。

 

やっと本題に戻ってきましたが、では現時点における『てのひら創世記』の「自由」の実践とは如何なるものであったか。それはまず、キャラクターの言動をテーマによって強く縛りつけない、という点に集約されるでしょう。『ぼっち侵略』は「ただ一緒にいる」という行為がテーマである「赦し」へと繋がるものであり、その早期の暴露によるテーマの崩壊を防ぐために各種描写を隠匿する必要がありました。対して『てのひら創世記』は、そもそも作品のテーマを登場人物の始点として明示することなく、各キャラクターの行動が結果的にテーマへと回収される形式を取りました。つまり、千絵や愛一郎の言動をすぐにテーマに回収させず、彼ら彼女ら自身のものとして一時留保することで、真に彼らの価値観に基づいた「自由」な行動を可能としたのです。

そう、ラブコメだよ、ラブコメ。よし!

勿論、これは「人気が出ず打ち切りになる不安があったため、すぐテーマを回収しきれる保険を打った『ぼっち侵略』」と「『ぼっち侵略』や『魚の見る夢』を通して経験を積み、テーマを急がずじっくり描けるようになった『てのひら創世記』」という、作家の精神的な余裕、戦略の違いに過ぎないという見方もできます。が、その『ぼっち侵略』自体が先述したようにテーマの早期回収手段とテーマそのものの描き方に関する工夫を一致させてみせたことからも、『てのひら創世記』もまた同様の仕込みとしてこれを実践したと見てよいと、私は考えています。

では、『てのひら創世記』は如何にしてここから「自由」というテーマを回収するのか……については後述するとして、そもそも千絵や愛一郎にとっての「自由」とはどう描かれているのか、こちらを見ていきましょう。と言っても、こちらもテーマだけあって本当に多量に描かれている部分なので、一部分に留めておきます。どの道各巻感想で死ぬほど書くことになりますからね……ははは……。

千絵と愛一郎の「自由」(価値の在処)は、例えば第一章第一節「月と太陽のめぐり」においても何度も何度も描かれています。冒頭部分においてすら、千絵と愛一郎が互いに不本意な(=不自由な)状況にあることを示していますし、ひーくんはその象徴として描かれています。赤ちゃんは家族に守られるべき存在であり、またそうであればこそ家族を縛る存在でもあるからです。

二人の「自由」は、この第一章第一節においては一見して対照的なものとして描かれます。家系や血筋に縛られつつもそれを望む千絵と、家系からの解放を望みつつも根底で縛られ続ける愛一郎。代々受け継いできた剣を我が物と自由自在に扱う千絵と、剣を捨て拳を自由に振り回そうともがき苦しむ愛一郎。

交わることのなさそうに見える二人の「自由」は、しかし一方で「家族を守る」という一点において共通するものであり、だからこそひーくんの存在が意味を持ちます。ひーくんは赤ちゃん(新たな家族)という不自由の象徴でありながら、また赤ちゃん(新たな家族)であるが故に、二人の「自由」が重なり合う可能性と未来の象徴でもあるのです。

であるならば、『てのひら創世記』におけるテーマの回収手段も自然と見えてきます。赤ちゃんは新たな家族であり、また成長することで家族内における役割、立ち位置が変化する存在でもあります。千絵と愛一郎もまた成長することを外部の人間達から望まれていますが、その内実は明らかになっていません。二人の成長とは何なのか。それは恐らく、単純に「知る(自認する)」ことなのではないでしょうか。なんとなれば価値とは「知る」ものであり、「自認する」ことでその対象を再認識できるものだからです。これは『てのひら創世記』における設定の開示速度が遅いことも関わってきています。「知る」ことが二人の成長=テーマの回収に直結する以上、作品の設定を無闇に開示することは二人をテーマの軌道上へと配置してしまう行為になり、つまりは「自由」を奪うことになりかねないからです。

物語の設定、セカイの全貌が明らかになる中で、果たして千絵と愛一郎はどのような「自由」をそのてのひらに掴むのか。それこそがこの物語の最大の焦点となることでしょう。しかしそうであればこそ、二人の「不自由」で「自由」な日々を、今はじっくりと読んでいければと思う限りです。一見して遅滞して見える日々こそがこの作品のテーマであり、また我々もまたそんな二人を見ていたいと、きっと思える筈なのですから。

 

だってねぇ、あなたも好きでしょ、ラブコメ

 

 

 

……と、いうのがここ1,2日で見えた大体の構造になります。ざっと思い浮かんだものを書き殴ったのでまだまだ雑ですし、仮にこれが正しいとするとそれはそれで別のテーマ的な問題がありそうな気もしないではないのですが、それはまたおいおい書ければと思います。

『てのひら創世記』1巻発売まで一ヶ月を切りました。正直冒頭に書いたとおりの理由で様々な諸々がすっかり手に付かず停滞していたのですが、ようやく魂に火が宿った気がするので色々再開できればと思います。頑張ります。

 

ではでは。

 

 

8/14 21:00頃 追記

 

……なんだこの文章は……寝言にしても限度があるぞ……。

流石にやばいと思ったので色々書き直しています。多少は読みやすくなったと思いたい……(そのうちまた加筆訂正するかも)。

 

で、そのついでに一つ書き忘れていたことを。

小川麻衣子先生がここまでテーマそのものの開示を拒み続けたのは未だにちょっと不思議ですが(実を言うと説明できなくはない)

と最初の方で書いたのですが……正直謎です。

本作のテーマが自由であり、また過去作の反省から登場人物をテーマそのものに束縛し過ぎない配慮がなされているという仮説が真であるなら、なぜ今このタイミングである程度それを開示したのか? この記事はその視点が完全に抜け落ちています。

 

……まぁでも、実際何故なのかさっぱり分からないですね……。

そりゃあ仮説は幾つか立てられますが、その先に待っているのは

A:「作者の人そこまで考えてないんじゃないかな……」

B:「いやお前今までの小川先生の鬼畜の所業(全力全開フルパワーで褒めてる)を棚に上げてそれを言うなよ……」

という脳内さいむの大乱闘スマッシュブラザーズなので、まぁうんって感じなんですよね……。

仮説A:考えすぎ。うっかり描いちゃったとか筆が乗ったとか小川先生も描いてる間にここまで言語化できるようになったとかそんなんじゃない?

→楽になりたいのなら断然こっち。

 

仮説B:小川先生は細かい設定ミスならまだしも、作品のテーマ管理でミスなどしない。明らかにこの後ひっくり返すか貫くか、ともあれ打算があってこのタイミングで開示する算段を立てたんだよ。大体お前、1巻発売ちょうど一ヶ月前の唐突なテーマ開示を本当に偶然と考えるつもりなのか?

→嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ私ははめられてないはめられてないんだ都合よく餌に食いついたわけじゃないんだきっとこの読みで良い筈なんだ私は踊らされてない私は踊らされてない……!!!

※『ぼっち侵略』連載中も大体いつもこんな感じでした。お気遣い無く。

 

まぁ実際私の読みがどうだったのかは他の人の感想や本編の続きがないことにはあまり打開の見込みの無い話なので、慌てずじっくり行きたいと思います。

 

ついでに幾つか宣伝を。

2020/08/14現在、サンデーうぇぶりにて『ひとりぼっちの地球侵略』が全話無料公開中です。

私の人生人格価値観諸々を大きく狂わせた作品です。初見で作品のテーマまで全て追い切るのは中々難しい作品ですが、読むほどに味わい深い作品ですので最初の1巻分だけでも読んでいただければ幸いです。

作者である小川麻衣子先生の最新作であり、今回の記事でも取り上げた『てのひら創世記』1巻は9/12日発売予定です。こちらもよろしくお願いします。

ではでは。