ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

ひとりぼっちの地球侵略は何を目指してきたのか?【1】

※この記事は調整中です。今後幾つかの加筆修正が為される可能性があります。

※本シリーズの序文・概要はこちらから。

thursdayman.hatenablog.com

【1】『とある飛空士への追憶』以後の作品における小川麻衣子作品のテーマの変遷

・本章の概要と、言及作品に関する捕捉

本章では、『ひとりぼっちの地球侵略』に至るまでの小川麻衣子作品に注目することで、小川麻衣子作品のテーマがどのように変遷していったかを辿り、ぼっち侵略のテーマ読解への足掛かりを作ります。

なお、ここで取り上げる作品は『とある飛空士への追憶』以降の読切・連載作品を主とし、それ以前の作品には基本言及しません。その理由は二つあります。一つ目は、『とある飛空士の追憶』以前の小川麻衣子作品は基本的に市場に流通しておらず、その入手が困難であるということです。『とある飛空士への追憶』以前の作品とは、サンデー超での読切作品や、asaki名義での二次創作同人誌がこれに該当します。これらの一部は国会図書館・各種漫画図書館での閲覧や、中古の購入等は可能であるものの、万人が安定して読むことのできる状態にはありません。私も一部は持っているものの、全てを網羅することは叶いませんでした。そうした事情もあり、読者がこのブログを読んだ後に比較的確実に購入できる『とある飛空士への追憶』以後をその対象とすることにしました。

二つ目は、『とある飛空士への追憶』以降における作品のテーマに強い一貫性があるからです。捕捉をしておきますと、『とある飛空士への追憶』以前にも私がこれから提示するテーマを想像させる作品は存在します。しかし、『とある飛空士への追憶』以後の作品ではぼっち侵略へと繋がるテーマの存在を特に色濃く捉えることが可能であり、これらを重点的に押さえることでぼっち侵略の理解をより深められると判断しました。

・『8月の面影』と『ひとかどのまちかど』~『赦し』の顕在化~

とある飛空士の追憶』は小川麻衣子先生初の連載作品であり、犬村小六先生の原作をコミカライズしたものとしてゲッサン2009年9月号から2011年3月号まで連載。全4巻が発売されました。このコミカライズ自体は原作をある程度忠実に踏襲したものとなっており、コミカライズ版独自と言える展開は4巻のラストのみに留まっています。

gekkansunday.net

この点に関しては、『ライトノベル・フロントライン1』(大橋崇行/山中智省)に簡単な解説が載っていましたので、そちらを一部引用させて頂きます。

ライトノベル・フロントライン1 | 青弓社

この作品はエピローグで「これまでの話は、某氏へのインタビューを下に書かれた、とある本の物語である」と明かされるのだが、このエピローグの描かれ方がマンガ版と原作では大きく異なる。(中略)しかし、マンガ版ではその著者の語りは描かれながらも、少年がその本を読んで目を輝かせ、明るい表情で空を見上げて物語は締めくくられる。ファムとシャルルは別れたあとにどうなったのかは明らかにはされておらず、「この物語の結末は著者に委ねる」と作中の本の著者は語っている。読者はきっと明るい未来を想像するだろうが、マンガ版にはそのような少年がいることで原作と比べてより一層、強い希望を感じさせるのではないだろうか。

(58~59P 西貝怜)

具体的な部分を挙げれば、4巻98Pにて本の筆者は「作家として誠に遺憾な締めくくりだが、願わくば二人の物語に最良の結末を与えてくださるよう、見知らぬあなたに祈るばかりである――――」と語っており、ここが読者に強い希望を感じさせる大きな要因と考えられます。

このエピローグはファムとシャルルの別れから少なくとも50年以上が経っており、レシプロ飛行機好きの少年は時代の潮流がジェット機に移り変わってしまったことを残念がっているようにも見えます。レシプロ機に対して少年が感じていた哀愁と憧憬が、少年自身の視点を通して物語の総括に影響を与えていると言えるでしょう。二人の旅がレシプロ機同様現実から放逐され、歴史を経て物語へと変化したからこそ、読者に結末を委ねる自由が生まれたのです。少年が本から感じ取った生々しさは、逆に物語になったからこそもたされた感触なのかもしれません。

とはいえ、これ以上の本格的なアレンジは本作には存在しないため、やはり基本的には原作を丁寧に描き切った作品ということができるでしょう。

しかし、この『とある飛空士への追憶』、中でもその最終巻である4巻には、小川麻衣子先生の作品を読み解く上で大きなヒントが存在します。以外にも、それは『とある飛空士への追憶』本編そのものではありません。『とある飛空士への追憶』本編の完結後、4巻の後半全体を占める二つの読み切り作品、『8月の面影』と『ひとかどのまちかど』です。

 

 『8月の面影』と『ひとかどのまちかど』は『とある飛空士への追憶』連載終了後に小川麻衣子先生が発表した読み切り作品で、それぞれゲッサン2011年7月号と9月号に掲載されました。両方ともSF的設定を背景に置きつつも、あくまで少年少女のやり取りが中心のお話になっています。このように設定や作風が似ている二作ですが、物語を追っていくと、『8月の面影』から『ひとかどのまちかど』にかけて、ある変化を見ることができます。

まずは、『8月の面影』から見ていきましょう。物語は「軌道塔」と呼ばれる宇宙まで伸びる物流エレベーターがある町が舞台です。従姉である秋絵の結婚式に出席するために故郷の町に帰って来た主人公の博之と、従妹(弟)の夕樹との過去と現在を巡るお話です。

主人公の博之は初恋だった秋絵への想いを断ち切るために、夕樹は実は女の子であることを隠して博之と会うために、それぞれ町に戻ってきます。最終的に博之は秋絵との(彼だけにしか分からない)別れを済ませ、その様子を見た夕樹は女の子の服を着て博之の前に現れ、博之が初恋だったのだと告げます。宇宙飛行士を目指す博之はいつかこの町で再会することを夕樹と約束して、物語は終わります。

本作の特徴として、軌道塔の存在が挙げられます。軌道塔は博之と夕樹の思い出を飾るパーツではあるものの、常に物語の背景にそびえ立っているだけで、登場人物がそこに向かうということはありません。この軌道塔は謂わば「届かないほど遠く、高い場所にあるもの」の象徴であり、秋絵さんへの想いを諦める博之や、背が伸びなくなり男の子として博之と接することができなくなりつつある夕樹の心情を一本の線と繋ぐ役割を果たしています。このような、登場人物達の心情を表現するための、彼らの手が届かないSF的設定は『ひとかどのまちかど』にも受け継がれることになります。

届かないものをテーマとして扱っている本作ですが、その中で「目指すもの」と「諦めるもの」の境目が現れている部分も注目すべきでしょう。博之は秋絵さんへの想いを諦める一方で、宇宙飛行士の夢は追いかけ続けます。夕樹は博之の前で男の子であろうとすることを諦めますが、そのために隠していた博之への想いはしっかりと言葉にします。そういった二人の未来を目指す告白が行われるとき、その背景には軌道塔があります。博之は軌道塔がこの先もそこに存在し続けるという前提で二人の再会を誓っています。つまり軌道塔は届かないものの象徴であると同時に、「過去も今も、未来も変わらないであろうもの」であると言えるのです。

とある飛空士への追憶』のエピローグにおいて、少年が好んだレシプロ機は過去のものであり、それ故少年はそこに哀愁とロマンを感じるのみでした。最早物語となってしまったファムとシャルルの物語も同様と言えるでしょう。『8月の面影』は軌道塔という「過去も今も、未来も変わらないであろうもの」を設定することで、そこに未来の視点を加えた物語であるとも考えられます。そういった意味ではより前向きな、希望的な終わり方をする作品に仕上がっています。 

ただ、ここで私が最後に重要視したいのは、未来を目指すという終わり方にするために、過去を諦めるという告白を登場人物達が意識的に、未来への展望とは切り離す形で行っている部分です。この諦めるための、自身が隠してきたことの告白という行動が、次の作品である『ひとかどのまちかど』において、ぼっち侵略に繋がる大きな変化を迎えることになるのです。

 

『ひとかどのまちかど』は、小川麻衣子先生の読み切り作品の中でも特にぼっち侵略と共通点が多い作品となっています。主人公の女子高生秋月豊乃が、同級生の緒方圭吾とその父親が営む喫茶店「てんや」でアルバイトをするお話です。この作品は『8月の面影』と同様にSF的設定が背景にあり、しかもその内容がよりぼっち侵略に近くなっています。秋月が住む太田街から浮舟橋という橋を渡ると、浮舟商店街という商店街に着きます。実はこの商店街には、様々な異星人達が住んでいます。「てんや」は商店街への入り口である浮舟橋の上に立っている、宇宙人が訪れる喫茶店なのです。

 秋月は宇宙人が集まるということへの好奇心や、宇宙船や飛行機、カメラなどを買うための資金集め、地球人が近づかない浮舟商店街なら友達にも見つからないといった理由などから「てんや」で働くことにした、という事情が本編では描かれます。

秋月の言動には重要な点がいくつかあります。まず一つは人の行かない場所へ、人に見つからないへ行きたいという思いでしょう。「てんや」でのバイトや、宇宙船をはじめとする乗り物が欲しいという主張からこれは読みとることができます。『8月の面影』でも博之が宇宙飛行士になりたいという似たような主張はしていたものの、その理由は作中で特に語られていませんでした。対して秋月は明らかに未知への好奇心によるものであることが分かります。145Pでは志望動機を緒方の父親に説明する際に「この店は地球人が経営してるのに、お客さんは異星人の人ばかりでおもしろいなって思って」と話しています。浮舟商店街と太田街は橋で繋がっているものの、秋月や緒方以外の地球人が宇宙人に好んで近づく様子は見られません。緒方がそうする理由は店を継ぎたいという理由からですが、秋月は異星人というある種普通の世界からは排斥されている存在への好奇心でそこに近づいています。秋月にとって、異星人とは面白い観察の対象なのです。

それを傍証するのが、もう一つの重要な点であるカメラです。カメラは対象を観察するための道具でもあり、被写体とカメラマンという関係をそこに明確に生み出すものでもあります。秋月は学校で友達と緒方について話す際、バイトしていることを隠すという事情もあって緒方とは距離があるような話し方をします。また、秋月の緒方への興味は秋月がバイトに慣れるほどに強まっていきますが、それはつまり異星人に慣れることによって新しい好奇心の対象が緒方へと移っていることを意味します。秋月はある意味において、緒方を異星人と同様に好機の対象と受け取っているのです。

勿論、こうした自身の視点について秋月自身が意識的であったとは言い辛いでしょう。彼女の行動には後ろめたさが全くありませんし、「てんや」という場所で異星人の中に入っていこうともしています(ただし「てんや」は浮舟商店街のあくまで入り口なので、そこに距離感はやはり残ってしまいます)。異星人やあまり親しくなかった男の子との触れ合いを喜ぶ一方で、彼らを被写体の中に収めるカメラマンとしての衝動に無意識に浸っている、それが秋月という少女なのです。

彼女のそうした無意識の観察はある日唐突に崩れ去ります。友達に緒方への好意を疑われた秋月は、逆に緒方を面白味の無い人間だと言い張ります。これはその直前にあるモノローグの「この緒方くんの顔は私しか知らないと、この会話も二人の秘密だと、そう思っていた。」という文章からも分かる通り、人の知らないものを見たい、観察したいという秋月の欲求が露わになったものです。自分だけが観察している緒方くんという不思議な存在が「普通の人々」側のものになってしまうことを秋月は恐れたのです。そこを通りがかった緒方は、「来なくていいよ。あんたたちの見世物になるつもりないし。」と秋月の友達を拒絶します。後にそれは友達にだけ向けた発言であることを緒方本人が明かすのですが、そうとは分からない秋月は自分も否定されたと思ってその日バイトに足を運ぶことができなくなってしまいます。

秋月がショックを受けた理由は、誤魔化しとは言え緒方を否定する言葉を本人に聞かれ、そして拒絶された(ように勘違いしてしまった)ことにあるように思えます。しかしそれだけではありません。大事なのは、緒方が「見世物になるつもりないし」と言っていることです。人の観察対象になるつもりはない。それは秋月が知らず隠し持っていた欲求の否定でもあり、秋月の根本を揺るがせる言葉でもあったのです。

『ひとかどのまちかど』は、この後秋月が閉店後の「てんや」へ、緒方に謝りに行くシーンで佳境を迎えることになります。結局誤解はすぐに解け、謝った秋月は緒方に見送られて帰りのバスに乗り込みます。自分が嫌われたくなかったということから緒方への好意を意識し始めた秋月と同様、緒方も他の女子とは違って秋月には嫌われたくないんだと言います。そこから先の言葉はバスが発車してしまうことで秋月には聞こえなくなってしまいますが、秋月はそれでよかったと思い、翌日から再びバイトに向かうようになります。

秋月と緒方は互いのことをある程度理解しつつも、それを言葉で説明しきれなかったがために学校ですれ違ってしまったわけですが、本作はそれに関するお互いの謝罪がクライマックスとして設定されています。謝罪とは自分の犯した罪を謝ることであり、そのためには犯した罪が提示される必要があります。つまりは、罪の告白です。緒方も秋月も、お互いに説明の足りなかった部分を明らかにし、それによって発生した罪を謝っている、という点においてこの罪の告白から謝罪への流れを踏襲しています。これは、『8月の面影』において博之と夕樹が行った「隠していたことの告白」を更に発展させたものだと考えることができます。

ただし、謝罪はただ謝る側の一方的な行動に過ぎず、それだけでは意味を為しません。それを相手が承認することで、謝罪はその効果を発揮します。相手に赦されることで謝罪は完了するのです。『ひとかどのまちかど』は、緒方と秋月がお互いを赦し合うことで関係を持続させることになります。重要なのは、対象を楽しんで観察してしまう秋月の姿勢と、自分の夢だけを追いかけて他を省みない緒方の姿勢を、お互いが否定せず赦すことで受け入れている点です。これらは二人の明確な欠点でありながら、一方で彼らがそれぞれの夢を追いかけるために必須となる要素でもあります。二人はその欠点を是正させることなく、それでも一緒にいることを選んだのです。これが、後に小川麻衣子先生が連載する『魚の見る夢』と『ひとりぼっちの地球侵略』両方のテーマの基軸となる「赦し」の思想です。相手の罪や欠点を受け入れ、その存在を承認すること。これがこれ以降の小川麻衣子作品における動機の中心となっていきます。

そして、この「赦し」の思想は、最後にある一つの課題を残します。謝罪し赦すというのは赦す側と赦される側の間でのみ成立する関係であり、しかも赦される側の持つ欠点は良くも悪くも改善の必要を迫られません。秋月や緒方は、今後もその好奇心や無関心で他人を傷つける可能性を持ち続けることになります。しかしその性急な否定は彼らのアイデンティティを奪うことに繋がってしまいます。この問いに如何なる答えを導き出すか、その試行錯誤が、小川麻衣子先生の二つのオリジナル連載作品において、為されていくことになります。

・『魚の見る夢』が選んだ、「普通」からの凋落による救済

『魚の見る夢』(まんがタイムKRコミックス、全2巻)は、実は小川麻衣子先生の最初の連載作品(不定期連載)でもあります。本作は百合漫画における知る人ぞ知る名作と呼ばれる一方で、その知名度はぼっち侵略と比べてもお世辞にも高いとは言えません。そのような状態にある理由は、この作品が辿った複雑な経緯にあります。

『魚の見る夢』は、百合アンソロジーコミック集『つぼみ』Vol.11から連載が始まりました。先述した通り不定期連載であったため、1年遅れで始まったぼっち侵略の方が2ヶ月ほど単行本化が早く、そのためぼっち侵略が小川麻衣子先生の初連載作品と勘違いされることもありました。その後、『つぼみ』が休刊することになったため『魚の見る夢』もつぼみwebに連載が移行。それでも最終話までは掲載されず、2014年1月に発売された第2巻の書きおろしにて完結することになります。電子書籍化が遅れ、第2巻中古品の値段が高騰。小川麻衣子先生がその事態に気づき、2017年4月に遂に2巻電子書籍版が発売されます。

このように、

 ・アンソロジーコミック集での不定期連載

 ・掲載雑誌の休刊

 ・電子書籍化の遅れ

等々の理由から、『魚の見る夢』は低い知名度に留まっています。ですが、その内容は2巻で完結した作品とは思えないほどに鋭利です。むしろ2巻で終わることになったからこそ可能になる展開の早さで、1巻で用意したギミックを見事に消化しきっています。そして、そこで立ち現れる作品のテーマが、ぼっち侵略と対になる答えを導き出していくことになるのです。

 

本作の主人公である周防巴と周防御影は、それぞれ周防家の姉と妹です。周防一家は父親と母親も合わせた4人家族でしたが、母親は二人が幼い頃に病気で他界。それにショックを受けた父親は、御影に妻の面影を見出し、妻の名前で呼ぼうとさえしてしまいます。これにより姉妹と父親の関係は瓦解。画家である父親は仕事に没頭するようになり家には帰らずじまい。周防姉妹は父親とは別居同然になり、それぞれ別の高校に通うことになります。姉の巴は父親のことを心底嫌悪し、高校卒業と共に家から出ようと考えています。一方、妹の御影は父親に迫られ心に傷を負ったにもかかわらず、自傷行為同然に父親のアトリエに時々通っては、その絵に魅せられてしまいます。こうした状況から、この物語は幕を開けます。

先述した通り、姉妹でありながら巴と御影の在り方は両極端です。巴は普通であることを目指し、大学への進学や家からの自立など、父親から離れて一人立ちする機会を伺っています。ただ彼女は誰かを好きになるということの意味が分からず、そのことで思い悩んだりもします。対する御影は寝ている巴に首輪をつけたり、迫ってくる筈の父親のアトリエに通ってしまったりとおおよそ普通とは言い難い行動に走りがちです。巴や高校の同級生である高柳に自ら関係を迫ったりと、姉と比べて自分の中の好意を自覚していることも特徴です。

こうした二人の違いは、母親と家族に関する記憶の違いにあります。先に生まれた巴は母親のことをまだ覚えています。そのため「普通だった」頃の家族を知っているのです。それが失われ、父親がその情動の行き先を御影に向ける様子を見てしまったことで、巴は普通でなくなることをひどく恐れるようになりました。誰かを好きになるということは、その人との関係性の変化を求めることです。変化そのものが怖かったからこそ、巴は好きということが分からなくなっていたのです。

御影は反対に、母親がいた頃の家族を覚えていません。御影にとっての世界は、自分に母親の姿を見てしまう歪な父親と、自らは歪になるまいと普通であろうとする巴から始まっています。彼女の知っている家族は最初から「普通ではない」のです。だからこそ御影は瓦解するかのような関係性を相手に求めます。瓦解とは変化の一種でもあり、「好き」に通じるものでもあります。そして、普通であろうとする巴にはその妨害をしつつ、自分と同じ側にいて欲しいと願うのです。

物語が2巻に突入すると、二人はそれぞれが抱える問題に直面することとなります。ある夜、御影は風呂上がりの体を巴に預けようとしますが、巴に拒絶されます。巴が自分を好きではないからかと落胆する御影でしたが、むしろ巴は嫌ではなく、自身の気持ちが分からなくなったからだと言います。

後日、巴の様子に困惑し苛立っていた御影は、その感情を高柳に体ごと押し付けようとします。すると高柳はそうした自他を省みない御影の行為に傷つき、「何か違う……」と泣き崩れてしまいます。「関係の瓦解」に端を発している御影の在り方は、確かに変化≒好きという感情に敏感ではあります。しかし瓦解とはそもそも変化≒好きの形の一つに過ぎません。相手を大切に思うのであれば、寧ろ存続を前提とした変化をしていくのが普通であり、そして瓦解を前提としているからこそ、御影はそんな些細なことにさえ、高柳を傷つけることでしか気づけなかったのです。

 一方、巴は「好き」が何なのか考えるうち、クラスメイトの九条に次第に惹かれていきます。九条は巴の傍にいつつも大きな干渉はせず、巴の話を静かに受け止めます。九条が変化することのない、居心地の良い関係性を保ってくれることで、巴は九条への想いを少しずつ温めていきます。ところが、大学受験を控えた3年の冬、九条は突如として豹変します。同じ大学に行こうと誘い、一緒に申し込むからと巴から受け取った志望校への願書を、締切日の翌日に巴の眼前で破り捨てたのです。普通でいるための、父親から離れるための道を断たれ絶望する巴に、九条は自分の気持ちを吐露し、告白します。築き上げてきた関係が成就し、別のものに変化する瞬間。その変化の極北である、瓦解を通り越した破滅。それが九条の求めたものだったのです。全てが壊れた瞬間を永遠のものとして刻み込まれることで、巴はようやく「好きとはお互いが変化すること」であると理解します。それを教えた九条が巴に押し付けた代償は余りにも重く、巴は呆然としながら帰路につきます。 

そうしてお互いの見失っていたものに二人が気付いた後、物語は終局に向かっていきます。巴が九条に告白された日、黙って父親のアトリエで絵のモデルになっていた御影。そこに現れた巴は父親を殴り倒して御影を連れて帰ります。なぜみんな普通でいようとしれくれないんだ、と叫ぶ巴に御影は言います。それが普通であろうとなかろうと、相手のことを考えないから傷つき裏切られるのだと。他の誰がいなくなっても自分は巴のそばにいると。巴の言動は瓦解を恐れるが故の普通への固執であり、御影のそれは瓦解の中で生きてきた故の瓦解への執着でした。二人はともに瓦解したものにとらわれ過ぎていたのです。それにいち早く気づかされた御影は、瓦解を除いた、もっと持続可能な変化を受け入れることで、人は分かり合い共に生きていけるという道を指し示したのです。それは自分を受け入れて欲しいという御影の告白でもありました。

話を聞いた巴は立ち直り、九条に妨害された大学の後期試験を受けます。高校の卒業式の日、巴は九条のことは最後までよく分からなかった、と言って九条と決別し、高校を後にします。御影と巴がどこかへ向かうための荷物をまとめ、駅の改札へ向かうところで、物語は終わります。2巻の最後にエピローグもありますが、そちらは後述します。

 

さて、ストーリーの概説に大分文章を割いてしまったので、そろそろテーマの掘り下げに入りましょう。小川麻衣子先生は『魚の見る夢』のテーマについて、2巻の後書きで「家族の再生」と位置付けています。ただその後に「……姉妹の方だけネ」というコメントを残している通り、本作は変化を通して持続可能な関係を作り上げる、という結論に主人公二人を辿り着かせるまでの物語となっています。先に挙げた小川麻衣子作品と比較してみましょう。

 他の小川麻衣子作品と比較する中でまず真っ先に挙げられる特徴は、本作は飛行機漫画(という分類があるかはともかく)でもSF漫画でもないということです。一見自明のことと考えられますが、ここにポイントがあります。『とある飛空士への追憶』のエピローグの少年や『8月の面影』の博之、『ひとかどのまちかど』の秋月達は、皆手の届かない「未知なるもの」への憧れを抱いていました。レシプロ機や宇宙船といったものへの興味関心が彼らを突き動かしていたのです。一方、『魚の見る夢』ではそういった「未知なるもの」への憧憬があまり見られません。主人公の巴は家からの自立を目指していますが、その願いの根底にあるのは常に父親からの逃避であり、もっと言えば普通であることへの固執です。そこに未知なるものへの興味や関心はなく、どちらかと言えば生きたい、追いつめられたくないという、自身の生存に直結する衝動が主でした。

では『魚の見る夢』における、「未知なるもの」とは一体なんなのでしょうか。実は、本作におけるそうした「未知なるもの」に該当する概念は、百合なのです。『魚の見る夢』の登場人物達は、女の子同士の恋愛の中に各々の望みや可能性を見出していくことになります。小川麻衣子作品の過去の登場人物たちも、未知なるものへの憧れからは専らそうした未来への展望を見出していました。つまりは百合こそがレシプロ機であり、宇宙船なのです。

ただし、百合には一点、「未知なるもの」との大きな違いがあります。それは、そもそも『魚の見る夢』において百合は未知ではないということです。『魚の見る夢』に登場する女の子達は大体が誰かとのカップリングが最初から成立していますし、そうした関係であることを理解不能であるものとは思っていません。2巻で巴は御影と体を重ねることについて「普通のことではない」と断言し、御影もそれを否定はしていないものの、両者共にそうすること自体は嫌ではないと明言しています。百合は普通のことではありませんが、「未知なるもの」というわけでもないのです。

次に、主人公達の言動に着目してみましょう。巴と御影は最終的に自分が抱えていた欠点と向き合い、それを克服することで瓦解を乗り越え、変化を受け入れました。この到達点は過去の作品とも合致しています。『8月の面影』における博之の秋絵さんへの想いや夕樹の抱えた秘密、『ひとかどのまちかど』での秋月の無遠慮な好奇心や緒方の無愛想さは、各々の意識に関わらず隠していたものとして告白、または謝罪の要因となりました。特に『ひとかどのまちかど』では、そうした罪をそれを赦し合うことに作品の焦点が置かれています。『魚の見る夢』でも巴と御影はお互いを受け入れることで先に進むことができるようになっており、「赦し」の思想は確実に受け継がれていると言えるでしょう。

さて、ここで『ひとかどのまちかど』では留保されていた「赦し」の思想の問題点が浮上します。お互いの欠点や罪を赦し合うという行為は当事者同士だけのものになるため、そのままでは周囲の人々との間に不和を招く可能性が残ってしまうのです。この問題点に関して、『魚の見る夢』はどのような解答を出したのでしょうか。そのヒントは『魚の見る夢』というタイトルと、2巻のエピローグに隠されています。

そもそも、本作は何故『魚の見る夢』というタイトルなのでしょうか。本作には、魚、及び魚の住むような海や水槽が登場するシーンが幾つか存在します。それらを用いて考えてみましょう。

1巻の第1話冒頭、巴は海の底で首輪に釣られかける夢を見ます。ここで巴は海の底について「息苦しい」と言っています。次に第2話の水族館のシーンで、御影は水族館を「平和の象徴」といい、母親がまだ生きていた、家族全員の仲が良かった頃の世界に見立てます。その上で、あの頃にはもう戻りたくない、昔には帰れないといいます。注目すべきは、巴が「海の底」を、御影が「水族館」をそれぞれ嫌がっている点です。この二つは、実は巴と御影が望んでいるものの象徴なのです。普通でいたいと願う巴は「水族館」を、普通になりたくない(普通でいられない)御影は「海の底」をそれぞれ望んでいます。「魚の見る夢」とは、巴と御影が望む世界のことなのです。

それを踏まえた上で、2巻エピローグ「ある夜の日」を読むと、一つの答えが浮かび上がります。ある冬の夜にベランダへと出た二人は、雪降る夜を海の底に例えます。その重苦しさや寒さを実感しつつも、二人はしばしベランダで寄り添いながら冬の夜を眺めつづけます。ここで言及された「海の底」が第1話冒頭の「海の底」と繋がるのであれば、巴と御影は普通ではない世界で生きることを選んだということになります。また、最終話で巴と御影は二人で駅のホームへ向かい、直後にこのエピローグを二人きりで迎えることになります。『ひとかどのまちかど』では秋月と緒方はその後も「てんや」という複数の人々と過ごす生活に身を投じていますが、『魚の見る夢』において巴と御影は二人だけで物語の終わりに立ち会うことになるのです。つまり、『魚の見る夢』において、巴と御影はお互いの変化を受け入れ、普通ではなくなり、最後には海の底に見立てられた二人だけの世界に辿り着いたことになるのです。

2巻24ページからのやり取りに再度注目してみましょう。巴は女の子が女の子を、それも実の姉を好きになることを「普通のことではない」と言い、御影はそれを知りつつも巴に体を預けようとします。対する巴はそれを拒んだ上で、しかしその「普通のことではない」行為自体は「嫌じゃない」と言います。巴は普通でいたいと望みながらも相手を好きになるためには変化を許容しなければならないという矛盾に苦しんでいるのですが、それはともかく、巴も御影も女の子同士での恋愛を「普通のことではない」と理解した上で望んでいることがここで重要なポイントとなってきます。

巴と御影は、父親や九条から離れる意味合いも兼ねて二人一緒に生きていく道を選んでいます。しかし、父親や九条の在り方が普通ではないのと同様に、実は巴と御影の関係も普通ではないのです。父親や九条は共に生きる相手を失ったために、ラストは一人となります。彼らはそれぞれ他の登場人物に糾弾されつつも、最後までその在り方を変えようとはしませんでした。何故なら、もしここでその普通ではない在り方を変えるという結論に至った場合、巴と御影の関係もまた糾弾されなければならないからです。だからこそ巴と御影は、お互いの普通ではない在り方をお互いに許容する、二人だけの関係をただそこに築き上げたのです。その二人が辿り着いた場所は、先述した通り重苦しく寒い海の底です。それでも二人なら、二人であればこそ生きていける。それが『魚の見る夢』という作品が出した答えだったのです。

普通ではないことを罪と考えるのであれば、『魚の見る夢』はお互いの罪を赦し合った二人が、その二人だけで完結する世界を選ぶことで周囲への/周囲からの糾弾を回避する作品だと考えられます。『ひとかどのまちかど』において留保されていた問題への答えの一つを、『魚の見る夢』は提示してみせたのです。

・受け継がれた「赦し」とぼっち侵略に課せられたテーマ

本章の最後に、『とある飛空士の追憶』以降の小川麻衣子作品について、その変遷をまとめましょう。

とある飛空士の追憶』のエピローグにおいて、小川麻衣子先生は少年の視点を通し、今はもう届かないものへの憧憬を抱いていました。『8月の面影』ではそうした届かないものへの思いを登場人物に語らせる一方で、そうした思いを隠していたことの告白が物語の主題として立ち上がってきます。『ひとかどのまちかど』ではその告白が更に掘り下げられ、登場人物達が何かを目指すことによって生じる欠点や罪の「赦し」へと発展します。ここで、「赦し」は赦す者と赦される者との間でしか成立せず、解決されない欠点や罪が周囲の人々に危害を与えてしまう、という問題が残ります。『魚の見る夢』はそれに対し、お互いを赦せる者同士で他者と交わらない空間≒「海の底」へ沈み、そこで互いを支え合って生きていく、という答えを出したのでした。

以上の変遷において最も大きな変化は、やはり「赦し」の誕生とその先鋭化でしょう。小川麻衣子作品における「赦し」は、赦す者と赦される者との間でのみ成立する、赦される者が抱えている欠点や罪の容認であると言えます。目立った傾向としては、何かに憧れる、何かを目指すという行為にその欠点や罪が付属している場合が多い、ということが挙げられます。よってそれらは登場人物達の普段の言動の裏に隠れており、それの表出か登場人物自身による告白を必要とします。

もう一つ注目しておきたいのは、「赦し」が先鋭化するに従って、彼らが求めたり目指したりしていたものが、次第に手の届かない遠くのものでは無くなりつつあるということです。『とある飛空士への追憶』でのレシプロ機、『8月の面影』や『ひとかどのまちかど』での宇宙飛行士・宇宙船などは、登場人物達の日常には存在せず、それ故に手の届かないものとして夢や憧憬の対象となっていました。一方、『魚の見る夢』においてそうした概念は百合として描かれていますが、これらは既に登場人物の日常に普遍的に存在しています。巴は地方の大学という遠い場所を目指してこそいますが、それは父親からの逃避が目的であり、夢や憧憬といった概念はほぼ見受けられません。本作においてそういった感情は全て百合に注がれています(例外は父親くらいのものです)。そして、巴と御影は二人一緒に生き続けるためにお互いの変化(罪)を赦し、海の底へと沈みます。

また、『8月の面影』や『ひとかどのまちかど』では、二人一緒にその場所を目指すということはありませんでした。夕樹は博之のように軌道塔を目指しませんし、緒方は秋月のように宇宙に憧れてはいません。しかし『魚の見る夢』では巴と御影が同じ場所にい続ける決断を下します。これは、登場人物達の行動の動機が夢の希求から生存の希求へと変化したことを示唆するものであると考えられます。「赦し」が先鋭化された場合、必然的に赦される者が抱える罪も深刻化します。その罪は本人をより強く蝕むものになり、それ故に彼らの普段の言動は夢の希求から生存の希求、罪により傷いたり傷つけたりすることのない状況の達成へと向かうようになったのではないでしょうか。

 

『魚の見る夢』は、『赦し』というテーマについて一つの答えに達した作品であると言えます。しかし、こうしたテーマへの回答として、あらゆる要素をクリアする答えというものはそもそも出せません。『魚の見る夢』の答えにも、幾つかの問いは残されることになりました。それはまず、巴と御影は今後もあの「海の底」で生きていくことになる、ということへの疑問です。確かに彼らは二人で生きていくことは可能であるため、作中での問題は解決されています。ですが、そもそも「海の底」は普通の人々がいない空間であるため、息苦しく、寒い場所となっています。巴と御影のように「海の底」で生きられない人の場合、同じ答えを踏襲することには困難が伴います。また、「赦し」のためには罪を当事者が認識する必要があります。ですが、そうした罪への意識に耐えられない人間もいます。「赦し」を達成するための前段階で躓く人もいる可能性があるのです。負っている罪が重いため、罪の表出・明確化によってかえって被害が出てしまうケースも考えられます。こうした、「赦し」を達成する過程に耐えられない弱い人間はどのように「赦し」を目指していけばいいのか。その問い対する答えの模索が、次章からいよいよ触れていく『ひとりぼっちの地球侵略』において為されることになるのです。

 

⑵ぼっち侵略における、作品テーマの実践段階までの掘り下げに続く。