ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

平成と令和を跨いで、小川麻衣子先生の読み切り作品を振り返ろう!(令和編)

こんにちは、さいむです。

今回は、平成と令和を跨いでのブログ更新ということで、小川麻衣子先生が『ひとりぼっちの地球侵略』完結後に描かれた二作の読み切りについてざっくりまとめていきたいと思います。

今回は令和編ということで、ゲッサン2019年4月号に掲載された『すぎれば尊し』を見ていきましょう。

※『いつか、君を』について書いた平成編はこちらから。

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小川麻衣子作品が積み重ねてきた「斜に構える」と「赦し」の集大成:『すぎれば尊し』

小川麻衣子先生2018年最後の作品となった『いつか、君を』は、小川麻衣子先生が珍しくラブコメに挑戦した、気軽な気持ちで読める作品でした。それに対して2019年最初の作品となった『すぎれば尊し』は、『魚の見る夢』、『ひとりぼっちの地球侵略』と連載を続けてきた小川麻衣子先生の一つの到達点とも言える内容になっています。

※概要の確認及びゲッサン購入はこちらから。

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小川先生曰く、

「今回の読切は担当さんたちに評判よかったです。
純粋にネームと作画で、かけた時間と労力が大きかったです。取材(という名の旅行)にも行ったしね。
でもこういうのまた描けっていわれたら、もう暫くはいやだなぁ。」

   ※小川先生のブログより

とのことで、かけた労力に見合った労作になっていると私は思います。できればこういうのが次は読みたいとは思うけれども、これだけ大変そうだと難しいですかね……。

 

――あらすじ――

温泉旅館「天海荘」の一人娘である女子高生の小宮夏希は、3年前に母を亡くした父の再婚を間近に控えていた。父の再婚に気持ちの整理がつかず、そんな自分を支えようとする田舎の濃いコミュニティにも素直になれず、夏希は彼氏の清田からも距離を取って一人鬱屈とした日々を送っていた。そんなある日、天海荘に須藤ハヤタを名乗る大学生がバイクに乗ってやって来る。旅館の料理長である父のファンだと言い、サービスを抜きにしてもらう代わりに安い料金で連泊するハヤタ相手に、夏希は接客の練習をすることに。ぐーたらなハヤタに当初はイラついていた夏希だったが、自由を享受するハヤタの姿に少しずつ興味を抱いていき……。

 

『いつか、君を』がラブコメ寄りだったのに対し、こちらは正面切ってボーイミーツガールで勝負する作品に仕上がっています。二作ともヒロインがロングヘアーなのはぼっち侵略の反動なのでしょうか。今回は黒髪なので、あらた先生のトーンは無し。ハヤタがバイクに乗っていますが、小川先生は大のバイク好き。ぼっち侵略の作者コメントでもバイクを買った旨を報告していた他、今作でハヤタが乗っているカワサキのヴェルシスX250にも実際に体験乗車しています(小川先生のブログ参照)。ボーイミーツガールといいバイクといい、小川先生が好きそうなものが詰まった作品です。

脇役のキャラメイクもやはり試行錯誤の跡が見えます。『いつか、君を』程モブキャラが登場する話ではないのですが、顔の長い坊主という清田の造詣は目新しさもあってなんとなく二度見してしまいました。ちょっと面白い。

それと小ネタですが、ぼっち侵略のセルフオマージュ要素もあります。「大鳥希」を思い出させる主人公の「夏希」という名前、そして温泉旅館の「天海荘」は広瀬くんの自宅でもある喫茶店「天の海」ですね。はい。好きですこういうの。

 

さて、ネタバレ込みで内容の話に入っていきますが、ぼっち侵略に限らず小川麻衣子先生と言えば「斜に構える」ところから話が始まる、というのが私の最近の考えです。例えばぼっち侵略の場合、大鳥先輩が「オルベリオ人が優れている」「オルベリオ人だけが仲間であり対等にコミュニケーションを取れる相手」という偏見が序盤の物語の基礎になっています。言ってしまえば、大鳥先輩が地球人に対して斜に構えてしまっている状態を改善し、大鳥先輩が自分と向き合えるよう成長させていくのがぼっち侵略のストーリーだったわけです。

そして、この「斜に構える」姿勢は、誤解を恐れずに言ってしまえば小川先生の作劇方法そのものにも表れていていたのではないか、そう私は最近考えています。ぼっち侵略は全編通じて作中のテーマをしっかり読み解くのが難しい作品です。終盤は物語の収束に伴って多少分かりやすくはなりましたが、特に序盤のそれはうんうん首を捻りながら悪戦苦闘する毎日でした。何故こんなに分かりにくいのか? 勿論それが作品の奥深さに繋がっているのですから嫌がることは無いにせよ、(恐らくは)読者の多くが気づけない程に分かりにくくする理由、その原動力を推測することが今までできなかったのです。

が、最近、ふと思ったのです。「もしかして大鳥先輩等のキャラクター造詣に限らず、作劇方法も小川先生がそれらを真っ正面から描かず斜に構えたからこうなったのではないのか?」と。最早完全な妄想と化していますが、よく考えみれば大鳥先輩の知らず斜に構える姿勢と、それを分かりにくく、スルーさせかねない作劇の手法がある意味で一致しているのも事実ではあります。この両者を徹底して緻密に描ききる手腕は本当に素晴らしいのでそのことをどうこう言うつもりは一切ないのですが、ともあれ小川麻衣子先生の作品は「斜に構える」ところから全てが始まる傾向がある、私はそう考えていたのです。

『すぎれば尊し』も、この「斜に構える」小川麻衣子先生の作品としての特色が色濃く出ています。再婚を受け入れきれないために素直になれない夏希と、大人になろうと無理矢理背伸びをした挙げ句、どう考えても後でバレるのに正体を隠して夏希に会いに行った結果、やっぱり嘘つき呼ばわりされてフルボッコにされる隼汰(悪いが君には同情しないからな)。自分を隠し、状況に正対できない二人の後ろめたさがこれでもかと描かれています。これだよ、これがいつもの小川麻衣子先生だよ! とヘドバンせん限りの勢いで頷きまくってました。

隼汰のバイクに憧れてもそこに乗ることはなく、結局ハヤタが去る瞬間を見ることすらできない夏希と、背伸びして得た偽りの自由の代償をきっちり支払わされる隼汰。そこには、二人が背伸びをして今の状況から自由になろうとしても上手くいかない現実が確かに横たわっています。

仮に夏希が隼汰のバイクに乗ってどこか遠くに行くことが叶ったとしても、夏希自身が今自分の周りにいる人々を嫌いなわけではない、という現実がその夢を打ち砕きます。家族や友達、あるいは恋人に気を遣わせてしまう自分が疎ましい、その思いがかえって彼ら彼女らを傷つけてしまう。それは夏希がその現実自体からの逃避を図ったところで変わることがないのです。隼汰相手に旅館の接客の練習をしているという事実も、彼女を現在に縛り止める一助になっているのかもしれません。

隼汰も隼汰で、本編では語りきられていませんが、色々と内心を推し量ることは出来ます。まず隼汰の買ったバイクですが、これは購入当初と現在とでその意味合いが実は全く変わってしまっています。

「ずっと片親で、父親いないから俺が男らしくならなきゃ~とか気張ってて、それで無理してバイク買ったのもある」

隼汰は本来、バイクを買うことで「父親」の代替になろうとしたのです。夏希の父親を見れば分りますが、父親とは家族を支え助けるために家族という枠の中で生き続けなければならない存在です。隼汰にとってバイクとは自由になる手段ではなく、寧ろ自分が片親を助けて生きていくという、自らの生き方を固定する象徴だった筈なのです。

ただし、この隼汰なりの理屈には根本的に綻びが存在します。何となれば、夏希の解釈の通り、バイクとは乗り物であり、成人せずとも乗ることのできる自由の象徴だからです。隼汰が今の自分にも可能な「大人も使う乗り物」としてバイクを選択した時点で、彼なりの「大人」像は矛盾を抱えてしまっているのです。

そして、母が再婚したことでバイクはその役割を本格的に失います。立場としても人間としても自分より「男らしい」新しい父を前に、隼汰は自分の生き方を見失います。だからこそ、彼は大学生として身分を偽り、バイクに乗って新しい父親の前に現れる必要があったのです。それこそは目の前の人間によって奪われた「大人になろうとした自分」なのですから。この瞬間、隼汰のバイクは彼が固定しようとした将来の象徴から、二度と実現する筈のない「家族の中で大人として振る舞う」ことを一度だけ自由に演じられる、さながらシンデレラの魔法の馬車へと変化したのです。

恐らく隼汰は、新しい父親の前で大学生として振る舞うことで、今一度自分が大人として背伸びできる可能性を模索しようとしたのでしょう。しかし実態としては、何もせず旅館に連泊するだけのぐーたら偽大学生でしかなく、父親と相対するどころかその娘である夏希にすら呆れられる始末。本編の最初に彼が見た夢は、彼が自由な存在であることを示したのではなく、彼がどうやっても大人を演じることができない子供なのだということを残酷に突きつけているのです。

……とまぁ、こんな感じでやっぱり『すぎれば尊し』も十分ややこしい話なわけで、例え単発の読み切りであろうと小川先生が気軽ではなく自分の思うとおりにネームを切るとこういう話になる、というのがなんとなく分かって頂けたのではないかと思います。夏希はともかく隼汰が難しいよ……。

さて、夏希は結局ハヤタの自由な姿に甘えることができず、それどころか彼の正体を知ったことでもう一度嫌な現実に立ち返ることになります。隼汰も金と時間が尽きたことで自身にかけた大人を演じる魔法が溶け、無理をした子供としてのツケを支払うことになります。彼らが斜に構え、無理をして叶えようとした逃避の夢は敢えなく破れ去ったのです。結局、二人の前には新しい家族と生きていくこれからの時間だけが延々と用意されることになります。

ここで重要なのは、斜に構えていた二人がその時間をどうやって受け入れ、生きていくかということです。そこで、私がぼっち侵略のテーマについて語る際に何度も重要視してきた「赦し」の概念が活きることになります。

「斜に構える」という行動は、そもそもその対象が必要になります。一度でも自分を偽り斜に構えてしまえば、それは他の誰かに対し嘘をついたも同然なのです。だからこそ、斜に構えたキャラクターが前に進めるようになるためには、嘘をついてしまった他者への謝罪と、それに対する他者からの「赦し」が必須となります(ぼっち侵略は大鳥先輩が他者に謝罪できないほどに脆い存在だったのでより話がややこしくなったのですが、ここでは割愛)。言葉でも行動でも、ただ傍に居るだけでもいい。罪を犯してしまった自身の存在を、それでも受け入れてくれる他者を持つこと、それが「赦し」なのです。

夏希にとって、実は「赦し」の描写は比較的早い段階で訪れていました。夏祭りの明かりを見下ろしてのハヤタとの会話です。

「「おめでとう」って言ってやればいいんだよ。」

「すっきりするぜ。あと親父さんが喜ぶ。」

身近な人間全てに自分を打ち明けられなかった夏希にとって、外から来たハヤタは今の自分の在り方を問える唯一の相手でした。そんな夏希は清田から遠ざかるためにハヤタを使って嘘をついてしまいます。この時点で、夏希にとってハヤタは自分が嘘に巻き込んだ謝罪すべき対象となります。そんなハヤタが夏希の心情に理解を示し、進むべき道を示してくれた時点で、夏希はハヤタに赦されているのです。

ハヤタが実際には嘘偽りの存在だった以上、彼女の「赦し」もまた無効になってしまうのではないか、そう思う人もいるかもしれません。それでも、彼の身の上話と助言それ自体は本当のものでしたし、後述するように隼汰を夏希が赦したことで、彼の「赦し」もまた夏希の中で生き続けることを赦されたのです。何より、隼汰が家族の一員となったことで、順序こそ前後していますが夏希は「身の回りの人間に自分を正直に出せるようになった」のです。清田を初めとする諸々の人間関係も、これから少しずつ改善していくことでしょう。

隼汰が赦されるのは本編のクライマックスです。正体を暴かれ、内々に秘めていた心情を全て白状して破れかぶれになる隼汰に対し、夏希は笑顔でただ「うん」とだけ返します。夏希がハヤタに赦されたように、夏希もまた隼汰が大人になろうとしたこと、そしてそれでも結局子供としてしか前に進めないことを受け入れ、また赦したのです。まぁ「弟」呼ばわりされて何かしらバカにされることは当分続くでしょうが、共に家族としての時間を過ごしていくことを受け入れてくれた以上、その辺りもやがて落ち着いていくはずです。

『すぎれば尊し』は最後、夏希が隼汰の横に並び立ち、「先は長いんだしね。」と呟くシーンで終わっています。やるせない現実を追い越そうと無理をして失敗した二人がそのことを互いに受け入れ合い、これからの時間を家族として共に生きていく。ひとっ飛びに何かを解決することはできなくとも、今という時間を一歩ずつ踏みしめるように進んでいくことで、現実を素直に受け入れてあるがままの自分として生きる。そういう決意を二人が固めていくまでの話でした。決して夢や楽しい一時を提供してくれるような物語ではありませんでしたが、小川先生の思想を前向きな形でまとめた、読後感の良い物語だと私は思います。小川先生の商業作家としての積み重ねをコンパクトな形に収めた、一つの集大成と言っていい作品でした。

 

以上、小川麻衣子先生の読み切りのざっくりまとめでした。最後に、ぼっち侵略の近況(?)について。

実はこの度、『ひとりぼっちの地球侵略』が第50回星雲章のコミック部門参考候補作に選ばれました!やったね!

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ということで、ぼっち侵略のちょっとしたお知らせでした。小川麻衣子先生の次回作は年内にもゲッサンにて連載開始の予定です。小川先生は既にネーム等々の作業に入られているそうなので、もう少しだけ、楽しみに待つとしましょう。ではでは。

平成と令和を跨いで、小川麻衣子先生の読み切り作品を振り返ろう!(平成編)

こんにちは、さいむです。

今回は、平成と令和を跨いでのブログ更新ということで、小川麻衣子先生が『ひとりぼっちの地球侵略』完結後に描かれた二作の読み切りについてざっくりまとめていきたいと思います。

 

2018年11月に『ひとりぼっちの地球侵略』最終15巻が発売された際、小川先生が2019年に新連載をゲッサンで始める予定であることが15巻の帯で告知されていました。とは言えすぐに新連載が始まるわけではなく、2019年4月30日現在までの準備期間中に小川先生は二作の読み切り作品をゲッサンに掲載することになりました。一作目は小川先生にしては比較的珍しいコメディ調の強いラブコメ作品『いつか、君を』。二作目はいつもの小川先生らしさがありつつも新しい側面が垣間見えるボーイミーツガール作品「すぎれば尊し」です。

 

小川麻衣子が描いたラブコメとあらた伊里へのアンサー:『いつか、君を』

まず平成最後に見ていくのは、ゲッサン2019年1月号に掲載された『いつか、君を』です。小川麻衣子先生曰く、

「気軽な気持ちで描きました。」

    ※ゲッサン巻末コメントより

「頭のよろしくない漫画描きたい!!描いた!!ってノリだったけど果たしてどうだったのでしょうか。」

    ※小川先生のツイートより

ということらしい本作は、コメディ色のかなり強い作品となっています。

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――あらすじ――

中学1年で学級委員長を務める川上乙華は、副委員長の五島幹太と談笑しながら係の仕事に追われていた。和やかな雰囲気の中、ふと体育系万能の五島に剣道の話題を振る乙華だが、五島は冷や汗混じりに話を逸らし逃げ去ってしまう。その背中に刺さる乙華の鋭い眼光。実は彼女は、小学生の頃男女混成の剣道大会で五島に一度も勝てなかったという苦い過去を持っていた。復讐に燃え五島と同じ中学に入学した乙華だったが、何故か五島は剣道をスッパリやめてしまっていた。果たして乙華は五島の弱点を洗い出し、そして勝利することができるのか。いや、そもそも乙華の正体にすら気づかない五島相手に、勝負を成立させることができるのか!?

 

あらすじからも分かるように、「いつか、君を(ぶっ倒す)」というファンシーなタイトルロゴを見事にひっくり返しています。前々からの予告で察してはいましたが、そう来たか……と初見では苦笑しながら読んでいました。主人公の名前が乙華(いつか)なので、「乙華、君を」ということで五島目線でのタイトルにもなっているという小ネタもあります。

一読してまず気になったのは、色々と新しいことに挑戦している部分が目立つことです。モブキャラの目つきが新しい、ヒロインの髪にトーンが入っているのが新しい(小川先生が髪にトーンを入れることはほとんどない。詳細は後述)、そもそもラブコメなのが新しい……と新しい尽くめです。気軽な気持ちでとは言いながら、ぼっち侵略連載時にはできなかった、やれなかったことを試行錯誤する様子が見て取れます。そうした目新しさを探すだけでもファンとしては大分楽しむことができました。

さて、小川麻衣子先生のラブコメ漫画なわけですが、小川麻衣子先生の作品は割とコメディの印象が薄いのも事実です。過去作品の中では、例えば『ひとりぼっちの地球侵略』13巻がSFラブコメと帯に銘打ってあったりもしました。が、私はどちらかと言えば5巻や3巻の方がラブコメとしては面白かったようにも感じています(まぁ、ぼっち侵略をどういう売り文句で宣伝したらいいのか難しいというのはよく分かります)。

本筋でシリアスな展開を進めているからこそ、合間に独立して挟まれるラブコメにメリハリがついて面白くなるというのがぼっち侵略のラブコメシーンの味だと私は考えているのですが、13巻はラブコメのラブの方に話の本筋が食い込み過ぎているんですよね。ぼっち侵略における広瀬くんと大鳥先輩の関係は作品テーマの根幹に関わる部分なので茶化すに茶化せないわけです(テーマを描き出す手段としては本当に上手いがラブコメにはなれない)。全編通して大鳥先輩と広瀬くんよりアイラと龍介の方がラブコメやっていたのもその辺りに起因するわけですが、ともあれそういった事情から小川麻衣子先生の作品においてラブコメが話の主軸となる機会はそう多くはありませんでした。

閑話休題、『いつか、君を』は小川麻衣子先生の作品にしてはあまり例を見ない、ラブコメ一本で勝負する作品となりました。で、果たして「ラブコメとして」どうだったのかというと……まぁ……そこそこ面白かったかなぁ……ぐらいの感じでした。

どうしても小川麻衣子先生の過去作品が頭にチラついてしまうのですんなり呑み込めないというのもあるんですが、コメディでないシーンのところがやっぱりシリアスな雰囲気になり過ぎた印象があります(基本的に乙華が重い)。単純に面白さ重視で考えるならもうちょっと全体的に軽めの話にしても良かったのかなぁと思わないでもないですが、逆に軽めの話を描こうとしてもそうなってしまう辺り、小川先生らしいとも思います。 

他方、そのシリアスな面に目を向けると途端に小川先生っぽさが顔を出し始めます。乙華が入学前の学校説明会で五島と再会するも忘れられていた件とか、五島が剣道をやめた理由を乙華相手に1コマですっぱり話し終えてしまう件とか、そうそうこういう噛み合わない話の作り方よくやるよなー(この辺だと特に3巻でよく見た印象)とうんうん頷いていました。こうした互いが互いに求め合うものがすれ違っていく描写はぼっち侵略でも多用されており、小川先生はコメディよりもこのような部分で特徴が出るタイプの作家なのだと改めて実感します。

総じて見ると「軽い雰囲気のラブコメになりそうで実はギリギリなりきれていない部分が目立つ」といった印象の作品でした。まぁ、ぼっち侵略というごつい漫画の連載が終わった直後ですし、堅苦しいことまで気にせずこれぐらい気軽に読める物があってもたまにはいいんじゃないかなぁと思いながら読み終えました(そもそも気軽な気持ちで描きましたと小川先生が仰っていますからね)。決闘の場面もいつの間にか試合が始まっているわ胴着は着ないわ白線踏み越えるわ、結構ハチャメチャな展開になってきたかと思いきや乙華の台詞周りがやっぱり重めなので一線を超え切れてない感じが惜しかったです。

 

私のブログにしては珍しく小川先生の作品に辛口なわけですが、ここからが本題。私が本作を読む中でどうしても頭から離れなかった「あらた伊里」という漫画家を紹介することで、私なりの本作の解釈を書いていきたいと思います。

あらた伊里先生は同人時代から小川先生と一緒のサークルで合同誌を出していた漫画家で、百合漫画を主に描いています。あらた先生の百合漫画の特徴はラブコメ要素がかなり強めなことで、このラブコメの描き方が本当に上手いんですよ。

あらた先生と小川先生は商業作家として活動を始めた後も親交が続いており、コミケで合同誌を出したり互いの漫画を手伝い合ったりしています。そして何を隠そう、今回乙華の髪の毛のトーンをあらた先生が手がけているのです。

ここまでこの記事を読んだ人の中には「じゃあ二人は作品の内容も似通っているのか」と思う方もいるかもしれませんが、実はこれが正反対とは言わないまでも完全に別物なんですよね。小川先生はストーリーライン上に作品のテーマを隠すようにじっとりと緻密に散りばめていくのが非常に上手いのですが、一方のあらた先生はラブコメでドカドカ話を盛り上げつつもキャラクターの関係をきっちり描き上げるのが上手で、得意分野がまるで違います。やや乱暴な言い方をすれば、小川先生はシリアス寄り、あらた先生はコメディ寄りの作家気質なのです。

小川先生が『魚の見る夢』といった百合漫画を描きつつもゲッサンという少年漫画雑誌を商業作家としての土俵にしたのに対し、あらた先生は百合漫画に傾倒する道を選び、『とどのつまり有頂天』という百合漫画を現在も連載しています。そんなあらた先生ですが、『壊れていてもかまいません』というSFボーイミーツガール漫画を実は描いていたことがあります。

『壊れていてもかまいません』は、好きな相手を食べてしまう「食恋欲」を持つ宇宙人の女の子と、その女の子にお弁当を振る舞ってあげた男の子の恋愛を描いたラブコメ漫画です。私がこの作品について個人的に注目していたのは、

「宇宙人の女の子と地球人の男の子の恋愛を描くSFボーイミーツガール漫画」

を、あらた先生がぼっち侵略の後を追うように描き始めたという事実でした。そうでなくてもあらた先生と小川先生の親交は上記の通りですから、どうしてもあらた先生に対する小川先生の影響力を想起せずにはいられません。本作は残念ながら全3巻で完結してしまいましたが、あらた先生がSFボーイミーツガール作品を描いたということ、そしてその内容面における小川先生の影響という二つの側面において、今なお私の記憶に強く残る作品となっています。

それらを踏まえてもう一度『いつか、君を』を読むと、この読み切りこそ、小川先生なりの『壊れていてもかまいません』へのアンサーだったのではないか、そう思わずにはいられないのです。

『壊れていてもかまいません』は、最初こそ主人公とヒロインのSFボーイミーツガールとして描かれていましたが、中盤からは百合漫画としての側面もかなり強い作品になっていきました。これはあらた先生の作家性が発露した結果であり(あらた先生自身が言及したツイートがある)、ある意味ぼっち侵略の影響を超えていく形であらた先生の作家性が作品を改めて支配し直していったとも考えられます。

『いつか、君を』は、小川先生があらた先生の助けを得て作り上げたヒロインを動かし、あらた先生の得意分野であったラブコメを描こうとした作品でした。『壊れていてもかまいません』が「小川先生の影響を受けつつもSFボーイミーツガールになりきれなかった作品」であるなら、『いつか、君を』は「あらた先生の影響を受けつつもラブコメになりきれなかった作品」ということになります。

そしてこの解釈を当てはめたとき、『いつか、君を』はある種の自己言及性を持ち始めます。乙華がどれほど五島の剣道に打ち勝ちたいと鍛錬を積んでも、当の五島自身はその剣道をあっさりと捨て去ってしまう。五島がどれほど乙華に惹かれようとも、乙華の打倒五島という目標を揺るがすことができない。互いが互いに惹かれるものを理解しつつも、各々の在り方を超えてそれらを受け止めることができないというこの状況こそ、小川先生とあらた先生の関係性をそのままに描き出したものだったのかもしれません。そう考えると、私はこの解釈を単なる妄想として片付けることがどうしてもできなくなってしまうのです。

小川先生とあらた先生が、商業作家として互いの作品を改めて評し合ったときに何が起こるのか。ある意味で邪な願望だとは思いますが、私はそれがどうしても見たくてたまりません。互いがキャリアを積み重ねていく中で、その瞬間がやって来ることは果たしてあるのでしょうか。個人的には心待ちにしたいところです。

 

平成編はここまで。明日は令和編として『すぎれば尊し』を見ていきます。

ではでは。

※令和編を投稿しました。下記のリンクよりお読みください。

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