ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

平成と令和を跨いで、小川麻衣子先生の読み切り作品を振り返ろう!(令和編)

こんにちは、さいむです。

今回は、平成と令和を跨いでのブログ更新ということで、小川麻衣子先生が『ひとりぼっちの地球侵略』完結後に描かれた二作の読み切りについてざっくりまとめていきたいと思います。

今回は令和編ということで、ゲッサン2019年4月号に掲載された『すぎれば尊し』を見ていきましょう。

※『いつか、君を』について書いた平成編はこちらから。

thursdayman.hatenablog.com

小川麻衣子作品が積み重ねてきた「斜に構える」と「赦し」の集大成:『すぎれば尊し』

小川麻衣子先生2018年最後の作品となった『いつか、君を』は、小川麻衣子先生が珍しくラブコメに挑戦した、気軽な気持ちで読める作品でした。それに対して2019年最初の作品となった『すぎれば尊し』は、『魚の見る夢』、『ひとりぼっちの地球侵略』と連載を続けてきた小川麻衣子先生の一つの到達点とも言える内容になっています。

※概要の確認及びゲッサン購入はこちらから。

gekkansunday.net

小川先生曰く、

「今回の読切は担当さんたちに評判よかったです。
純粋にネームと作画で、かけた時間と労力が大きかったです。取材(という名の旅行)にも行ったしね。
でもこういうのまた描けっていわれたら、もう暫くはいやだなぁ。」

   ※小川先生のブログより

とのことで、かけた労力に見合った労作になっていると私は思います。できればこういうのが次は読みたいとは思うけれども、これだけ大変そうだと難しいですかね……。

 

――あらすじ――

温泉旅館「天海荘」の一人娘である女子高生の小宮夏希は、3年前に母を亡くした父の再婚を間近に控えていた。父の再婚に気持ちの整理がつかず、そんな自分を支えようとする田舎の濃いコミュニティにも素直になれず、夏希は彼氏の清田からも距離を取って一人鬱屈とした日々を送っていた。そんなある日、天海荘に須藤ハヤタを名乗る大学生がバイクに乗ってやって来る。旅館の料理長である父のファンだと言い、サービスを抜きにしてもらう代わりに安い料金で連泊するハヤタ相手に、夏希は接客の練習をすることに。ぐーたらなハヤタに当初はイラついていた夏希だったが、自由を享受するハヤタの姿に少しずつ興味を抱いていき……。

 

『いつか、君を』がラブコメ寄りだったのに対し、こちらは正面切ってボーイミーツガールで勝負する作品に仕上がっています。二作ともヒロインがロングヘアーなのはぼっち侵略の反動なのでしょうか。今回は黒髪なので、あらた先生のトーンは無し。ハヤタがバイクに乗っていますが、小川先生は大のバイク好き。ぼっち侵略の作者コメントでもバイクを買った旨を報告していた他、今作でハヤタが乗っているカワサキのヴェルシスX250にも実際に体験乗車しています(小川先生のブログ参照)。ボーイミーツガールといいバイクといい、小川先生が好きそうなものが詰まった作品です。

脇役のキャラメイクもやはり試行錯誤の跡が見えます。『いつか、君を』程モブキャラが登場する話ではないのですが、顔の長い坊主という清田の造詣は目新しさもあってなんとなく二度見してしまいました。ちょっと面白い。

それと小ネタですが、ぼっち侵略のセルフオマージュ要素もあります。「大鳥希」を思い出させる主人公の「夏希」という名前、そして温泉旅館の「天海荘」は広瀬くんの自宅でもある喫茶店「天の海」ですね。はい。好きですこういうの。

 

さて、ネタバレ込みで内容の話に入っていきますが、ぼっち侵略に限らず小川麻衣子先生と言えば「斜に構える」ところから話が始まる、というのが私の最近の考えです。例えばぼっち侵略の場合、大鳥先輩が「オルベリオ人が優れている」「オルベリオ人だけが仲間であり対等にコミュニケーションを取れる相手」という偏見が序盤の物語の基礎になっています。言ってしまえば、大鳥先輩が地球人に対して斜に構えてしまっている状態を改善し、大鳥先輩が自分と向き合えるよう成長させていくのがぼっち侵略のストーリーだったわけです。

そして、この「斜に構える」姿勢は、誤解を恐れずに言ってしまえば小川先生の作劇方法そのものにも表れていていたのではないか、そう私は最近考えています。ぼっち侵略は全編通じて作中のテーマをしっかり読み解くのが難しい作品です。終盤は物語の収束に伴って多少分かりやすくはなりましたが、特に序盤のそれはうんうん首を捻りながら悪戦苦闘する毎日でした。何故こんなに分かりにくいのか? 勿論それが作品の奥深さに繋がっているのですから嫌がることは無いにせよ、(恐らくは)読者の多くが気づけない程に分かりにくくする理由、その原動力を推測することが今までできなかったのです。

が、最近、ふと思ったのです。「もしかして大鳥先輩等のキャラクター造詣に限らず、作劇方法も小川先生がそれらを真っ正面から描かず斜に構えたからこうなったのではないのか?」と。最早完全な妄想と化していますが、よく考えみれば大鳥先輩の知らず斜に構える姿勢と、それを分かりにくく、スルーさせかねない作劇の手法がある意味で一致しているのも事実ではあります。この両者を徹底して緻密に描ききる手腕は本当に素晴らしいのでそのことをどうこう言うつもりは一切ないのですが、ともあれ小川麻衣子先生の作品は「斜に構える」ところから全てが始まる傾向がある、私はそう考えていたのです。

『すぎれば尊し』も、この「斜に構える」小川麻衣子先生の作品としての特色が色濃く出ています。再婚を受け入れきれないために素直になれない夏希と、大人になろうと無理矢理背伸びをした挙げ句、どう考えても後でバレるのに正体を隠して夏希に会いに行った結果、やっぱり嘘つき呼ばわりされてフルボッコにされる隼汰(悪いが君には同情しないからな)。自分を隠し、状況に正対できない二人の後ろめたさがこれでもかと描かれています。これだよ、これがいつもの小川麻衣子先生だよ! とヘドバンせん限りの勢いで頷きまくってました。

隼汰のバイクに憧れてもそこに乗ることはなく、結局ハヤタが去る瞬間を見ることすらできない夏希と、背伸びして得た偽りの自由の代償をきっちり支払わされる隼汰。そこには、二人が背伸びをして今の状況から自由になろうとしても上手くいかない現実が確かに横たわっています。

仮に夏希が隼汰のバイクに乗ってどこか遠くに行くことが叶ったとしても、夏希自身が今自分の周りにいる人々を嫌いなわけではない、という現実がその夢を打ち砕きます。家族や友達、あるいは恋人に気を遣わせてしまう自分が疎ましい、その思いがかえって彼ら彼女らを傷つけてしまう。それは夏希がその現実自体からの逃避を図ったところで変わることがないのです。隼汰相手に旅館の接客の練習をしているという事実も、彼女を現在に縛り止める一助になっているのかもしれません。

隼汰も隼汰で、本編では語りきられていませんが、色々と内心を推し量ることは出来ます。まず隼汰の買ったバイクですが、これは購入当初と現在とでその意味合いが実は全く変わってしまっています。

「ずっと片親で、父親いないから俺が男らしくならなきゃ~とか気張ってて、それで無理してバイク買ったのもある」

隼汰は本来、バイクを買うことで「父親」の代替になろうとしたのです。夏希の父親を見れば分りますが、父親とは家族を支え助けるために家族という枠の中で生き続けなければならない存在です。隼汰にとってバイクとは自由になる手段ではなく、寧ろ自分が片親を助けて生きていくという、自らの生き方を固定する象徴だった筈なのです。

ただし、この隼汰なりの理屈には根本的に綻びが存在します。何となれば、夏希の解釈の通り、バイクとは乗り物であり、成人せずとも乗ることのできる自由の象徴だからです。隼汰が今の自分にも可能な「大人も使う乗り物」としてバイクを選択した時点で、彼なりの「大人」像は矛盾を抱えてしまっているのです。

そして、母が再婚したことでバイクはその役割を本格的に失います。立場としても人間としても自分より「男らしい」新しい父を前に、隼汰は自分の生き方を見失います。だからこそ、彼は大学生として身分を偽り、バイクに乗って新しい父親の前に現れる必要があったのです。それこそは目の前の人間によって奪われた「大人になろうとした自分」なのですから。この瞬間、隼汰のバイクは彼が固定しようとした将来の象徴から、二度と実現する筈のない「家族の中で大人として振る舞う」ことを一度だけ自由に演じられる、さながらシンデレラの魔法の馬車へと変化したのです。

恐らく隼汰は、新しい父親の前で大学生として振る舞うことで、今一度自分が大人として背伸びできる可能性を模索しようとしたのでしょう。しかし実態としては、何もせず旅館に連泊するだけのぐーたら偽大学生でしかなく、父親と相対するどころかその娘である夏希にすら呆れられる始末。本編の最初に彼が見た夢は、彼が自由な存在であることを示したのではなく、彼がどうやっても大人を演じることができない子供なのだということを残酷に突きつけているのです。

……とまぁ、こんな感じでやっぱり『すぎれば尊し』も十分ややこしい話なわけで、例え単発の読み切りであろうと小川先生が気軽ではなく自分の思うとおりにネームを切るとこういう話になる、というのがなんとなく分かって頂けたのではないかと思います。夏希はともかく隼汰が難しいよ……。

さて、夏希は結局ハヤタの自由な姿に甘えることができず、それどころか彼の正体を知ったことでもう一度嫌な現実に立ち返ることになります。隼汰も金と時間が尽きたことで自身にかけた大人を演じる魔法が溶け、無理をした子供としてのツケを支払うことになります。彼らが斜に構え、無理をして叶えようとした逃避の夢は敢えなく破れ去ったのです。結局、二人の前には新しい家族と生きていくこれからの時間だけが延々と用意されることになります。

ここで重要なのは、斜に構えていた二人がその時間をどうやって受け入れ、生きていくかということです。そこで、私がぼっち侵略のテーマについて語る際に何度も重要視してきた「赦し」の概念が活きることになります。

「斜に構える」という行動は、そもそもその対象が必要になります。一度でも自分を偽り斜に構えてしまえば、それは他の誰かに対し嘘をついたも同然なのです。だからこそ、斜に構えたキャラクターが前に進めるようになるためには、嘘をついてしまった他者への謝罪と、それに対する他者からの「赦し」が必須となります(ぼっち侵略は大鳥先輩が他者に謝罪できないほどに脆い存在だったのでより話がややこしくなったのですが、ここでは割愛)。言葉でも行動でも、ただ傍に居るだけでもいい。罪を犯してしまった自身の存在を、それでも受け入れてくれる他者を持つこと、それが「赦し」なのです。

夏希にとって、実は「赦し」の描写は比較的早い段階で訪れていました。夏祭りの明かりを見下ろしてのハヤタとの会話です。

「「おめでとう」って言ってやればいいんだよ。」

「すっきりするぜ。あと親父さんが喜ぶ。」

身近な人間全てに自分を打ち明けられなかった夏希にとって、外から来たハヤタは今の自分の在り方を問える唯一の相手でした。そんな夏希は清田から遠ざかるためにハヤタを使って嘘をついてしまいます。この時点で、夏希にとってハヤタは自分が嘘に巻き込んだ謝罪すべき対象となります。そんなハヤタが夏希の心情に理解を示し、進むべき道を示してくれた時点で、夏希はハヤタに赦されているのです。

ハヤタが実際には嘘偽りの存在だった以上、彼女の「赦し」もまた無効になってしまうのではないか、そう思う人もいるかもしれません。それでも、彼の身の上話と助言それ自体は本当のものでしたし、後述するように隼汰を夏希が赦したことで、彼の「赦し」もまた夏希の中で生き続けることを赦されたのです。何より、隼汰が家族の一員となったことで、順序こそ前後していますが夏希は「身の回りの人間に自分を正直に出せるようになった」のです。清田を初めとする諸々の人間関係も、これから少しずつ改善していくことでしょう。

隼汰が赦されるのは本編のクライマックスです。正体を暴かれ、内々に秘めていた心情を全て白状して破れかぶれになる隼汰に対し、夏希は笑顔でただ「うん」とだけ返します。夏希がハヤタに赦されたように、夏希もまた隼汰が大人になろうとしたこと、そしてそれでも結局子供としてしか前に進めないことを受け入れ、また赦したのです。まぁ「弟」呼ばわりされて何かしらバカにされることは当分続くでしょうが、共に家族としての時間を過ごしていくことを受け入れてくれた以上、その辺りもやがて落ち着いていくはずです。

『すぎれば尊し』は最後、夏希が隼汰の横に並び立ち、「先は長いんだしね。」と呟くシーンで終わっています。やるせない現実を追い越そうと無理をして失敗した二人がそのことを互いに受け入れ合い、これからの時間を家族として共に生きていく。ひとっ飛びに何かを解決することはできなくとも、今という時間を一歩ずつ踏みしめるように進んでいくことで、現実を素直に受け入れてあるがままの自分として生きる。そういう決意を二人が固めていくまでの話でした。決して夢や楽しい一時を提供してくれるような物語ではありませんでしたが、小川先生の思想を前向きな形でまとめた、読後感の良い物語だと私は思います。小川先生の商業作家としての積み重ねをコンパクトな形に収めた、一つの集大成と言っていい作品でした。

 

以上、小川麻衣子先生の読み切りのざっくりまとめでした。最後に、ぼっち侵略の近況(?)について。

実はこの度、『ひとりぼっちの地球侵略』が第50回星雲章のコミック部門参考候補作に選ばれました!やったね!

www.sf-fan.gr.jp

さぁ、みんなも(有料だけど)ぼっち侵略に投票して応援しよう!

ということで、ぼっち侵略のちょっとしたお知らせでした。小川麻衣子先生の次回作は年内にもゲッサンにて連載開始の予定です。小川先生は既にネーム等々の作業に入られているそうなので、もう少しだけ、楽しみに待つとしましょう。ではでは。