ぼっちQ&A!~ひとりぼっちの地球侵略感想ブログ~

月刊少年サンデー『ゲッサン』にて好評連載中の漫画『ひとりぼっちの地球侵略』について、徒然なるままに感想を書いていくブログです。

魚の見る夢1巻2巻をざっくりまとめてみた。

※注意:この記事は約30000文字と大変長いです。ご注意ください。

こんにちは、さいむです。

今回は、小川麻衣子先生が『ひとりぼっちの地球侵略』以前に連載していた作品『魚の見る夢』(まんがタイムKRコミックス、全2巻)について、内容をざっくりまとめていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

さて、実は弊ブログでは、以前にも魚の見る夢の全体的なまとめを別の記事で行ったことがあります。

thursdayman.hatenablog.com

こちらがその記事なのですが、ここでの魚の見る夢の読み込みは、ぼっち侵略に至るまでの過程としての魚の見る夢、という観点で行われているため、一部不十分な部分も存在します。なので今回は、この記事を加筆訂正し、魚の見る夢単体の記事として書き直していきたいと思います。

・作品概要と簡単なあらすじ紹介

まずは、魚の見る夢の概要から。


『魚の見る夢』(まんがタイムKRコミックス、全2巻)は、実は小川麻衣子先生の最初の連載作品(不定期連載)でもあります。本作は百合漫画における知る人ぞ知る名作と呼ばれる一方で、その知名度はぼっち侵略と比べてもお世辞にも高いとは言えません。そのような状態にある理由は、この作品が辿った複雑な経緯にあります。

『魚の見る夢』は、百合アンソロジーコミック集『つぼみ』Vol.11から連載が始まりました。先述した通り不定期連載であったため、1年遅れで始まったぼっち侵略の方が2ヶ月ほど単行本化が早く、そのためぼっち侵略が小川麻衣子先生の初連載作品と勘違いされることもありました。その後、『つぼみ』が休刊することになったため『魚の見る夢』もつぼみwebに連載が移行。それでも最終話までは掲載されず、2014年1月に発売された第2巻の書きおろしにて完結することになります。電子書籍化が遅れ、第2巻中古品の値段が高騰。小川麻衣子先生がその事態に気づき、2017年4月に遂に2巻電子書籍版が発売されます。

このように、

 ・アンソロジーコミック集での不定期連載

 ・掲載雑誌の休刊

 ・電子書籍化の遅れ

等々の理由から、『魚の見る夢』はお世辞にも高いとは言えません。ですが、その内容は2巻で完結した作品とは思えないほどに鋭利です。むしろ2巻で終わることになったからこそ可能になる展開の早さで、1巻で用意したギミックを見事に消化し、作品として一つのテーマを描ききっています。そのことから、本作は所謂百合漫画として、知る人ぞ知る作品の評価を得てもいるのです。

ちなみに、本作は公式サイトが存在し、現在でも閲覧することができます。

www.dokidokivisual.com

大好評発売中の文字が何故か見切れている辺りが面白ポイントです。

次に本作の簡単なあらすじを。

本作の主人公である周防巴と周防御影は、それぞれ周防家の姉と妹です。姉の巴は男女共学の公立高校に通っていますが、妹の御影は私立の女子高校に通っています。それぞれ三年生と一年生なので、二人はおよそ二歳差ということになります。周防一家は父親と母親も合わせた4人家族でしたが、母親は二人が幼い頃に病気で他界。それにショックを受けた父親は、御影に妻の面影を見出し、「かえで」と妻の名前で呼ぼうとさえしてしまいます。これにより姉妹と父親の関係は瓦解。画家である父親は仕事に没頭するようになり家には帰らずじまい。周防姉妹は父親とは別居同然になり、それぞれ別の高校に通うことになります。姉の巴は父親のことを心底嫌悪し、高校卒業後は県外の大学に進学することで家から出ようと考えています。一方、妹の御影は父親に迫られ心に傷を負ったにもかかわらず、自傷行為同然に父親のアトリエに時々通っては、その絵に魅せられてしまいます。こうした状況から、この物語は幕を開けます。

先述した通り、姉妹でありながら巴と御影の在り方は両極端です。巴は普通であることにこだわり、大学への進学や家からの自立など、歪んだ父親から離れて一人立ちする機会を伺っています。一方で彼女は誰かを好きになるということの意味が分からず、そのことで思い悩んだりもします。対する御影は寝ている巴に首輪をつけたり、迫ってくる筈の父親のアトリエに通ってしまったりと、おおよそ普通とは言い難い行動に走りがちです。巴や高校の同級生である高柳に自ら関係を迫ったりと、姉と比べて自分の中の好意を自覚していることも特徴です。

家族の崩壊によってどこか歪んでしまった周防姉妹が、互いに自身の歪みと向かい合いながら少しずつ新しい関係を模索していこうとする。魚の見る夢は、そんな姉妹の一年間を追っていく作品となっています。

 ・普通と歪み、巴と御影。

本章では、まず周防巴と周防御影という二人のキャラクターについて読解を進めていきます。その上で注目したいのは、「普通」という言葉です。

魚の見る夢1巻から、巴の「普通」を好むスタンスと、御影の「普通」への反抗という構図は既に完成していました。第1話冒頭の首輪を巡るやり取り、第2話での水族館での会話、そして第5話での将来についての喧嘩等、「普通」という言葉はなくともそれを彷彿とさせるやり取りは何度も登場しています。ただ、二人のその違いが何に依るものなのかは然程掘り下げられていませんでした。

こうした二人の違いは、母親と家族に関する記憶の違いにあったことが2巻から明らかになります。御影よりも先に生まれた巴は母親のことをまだ覚えており、そのため「普通」だった頃の家族を知っているのです。それが失われ、父親がその情動の行き先を御影に向ける様子を見てしまったことで、巴は「普通」でなくなることをひどく恐れるようになりました。既に母親が失われてしまった上に父親を否定したことで、巴は御影を唯一の、「普通」の家族として守ろうと決めてしまいます。勿論妹である御影を守りたいという気持ちは間違いなくあったのでしょうが、その裏で無意識のうちに「普通」である自分を守る手段としても御影を利用するようになってしまったのです(御影は早い段階でそのことには気づいていました)。彼女は初潮を迎えたときでさえ、混乱するばかりで御影が来るまで助けを呼べませんでした。助けを呼べば父親を頼ることになってしまうからです。御影を心配させまいとしたのも、御影には「普通」でいて欲しいという気持ちの表れと考えられます。「普通」でいたいという思いのはけ口を、巴は姉として御影を守るという行動の中に求めるようになってしまっていたのです。

巴のこうした「普通」へのこだわりは、しかし別の歪みを生んでしまっていたことが第7話で明らかになっています。誰かを好きになるということは、その人との関係性の変化を求める(普通ではなくなる)ことです。変化そのものが怖かったからこそ、巴は「好き」ということが分からなくなってしまったのです。御影が体の関係を求めようとしたのを巴が断ったのもそういった背景があってこそでしょう。

御影は反対に、母親がいた頃の家族をよく覚えていません。御影にとっての世界は、自分に母親の姿を見てしまう歪な父親と、自らが「普通」でありたいがために御影にも「普通」を押し付ける巴から始まっています(その行為自体が実は普通ではないことは先述した通りです)。彼女の知っている家族は最初から「普通」ではありませんし、父親が御影に求める「かえで」も、巴が御影に求める「普通」も、御影本人ではありえません。そのような環境下で育ってきたことを反映しているのか、御影は自分の存在を壊してしまうような行動を相手に求めるようになってしまっています。父親のアトリエに向かったり、第7話で巴に体の関係を求めに行ったりしていることがその表れと言えるでしょう。

瓦解とは変化の一種でもあり、つまりは「好き」に通じるものでもあります。瓦解を求めている御影は、「普通」であろうとする巴よりもそういった気持ちに聡くなっています。だからこそ御影は「普通」であろうとする≓「好き」を拒む巴を妨害しつつ、自分と同じ側にいて欲しいと願うのです。

このように「普通」という観点において対照的な両者ですが、この構図は2巻になって急遽形になったものであり、1巻でこの方向性がハッキリと示されていたわけではないことは留意すべきでしょう。例えば第2話において御影は母親が生きていた頃の家族をよく覚えていたとも受け取れる発言をしていますし、巴も自身はともかく御影を含めた他者に対して「普通」であってほしいという押し付けをしているような描写は2巻ほどありません。少なくとも、それが各々の罪として可視化されていくのは2巻からであることは間違いないでしょう。

まとめると、巴と御影というキャラクターの基礎は1巻の時点で固められており、2巻での早期完結に伴って

①母親(普通の家族)に関する記憶の有無による差異

②互いの歪みを他者に向けたことによる罪と罰

をそれぞれ明確化することで、魚の見る夢はその基本骨子を完成させたと言えます。が、ここで一つ問題も発生します。巴と御影は最後に互いを了承し合う以上、決定的な決別を迎えることがないため罪と罰を明確化させるための他者としては互いに不十分なのです。そこで、1巻で登場させていた他のキャラクターにその役割が回ってくることになるのです。

・高柳と九条~周防姉妹の罪と罰

ここからは、魚の見る夢に登場する他のキャラクターに焦点を当てていきましょう。その上でまず注目していきたいのは、高柳、そして九条の二人です。

高柳は御影と同じ高校に通っている同級生で、入学式の頃から御影に惹かれ、恋心を抱いています。明るくややがさつながらも一途な性格で、親友以上恋人未満といったような距離の御影をなんとか自分に振り向かせようと頑張っています。御影は巴ばかりを気にかけている都合上学校では大人しく過ごしているので、基本的には高柳が御影に迫るやり取りが多く描かれています。

高柳は周防姉妹の関係に割り込む、所謂当て馬として用意された側面の強いキャラクターです。実際1巻では、巴と一緒に帰っていく笑顔の御影を見て嫉妬する場面も描かれています。と言っても蔑ろにされているキャラクターというわけでは全くなく、百合漫画で言うところの所謂カップリング的な、キャラクター同士の関係性に幅を持たせる役割を1巻では多く担っていました。巴に対しては脆さを見せつつも強気に押していく御影が、高柳に対しては受け身の姿勢で押されていく、そんなキャラクター毎に主要人物の別側面を掘り下げていけるような、可愛げのある脇役としてしっかりと息づいていたと言えます。

ところが、2巻に入ると高柳の役回りが変化していきます。第8話において、御影は巴に自身をさらけ出したにもかかわらず拒絶されたことの意味が分からず悩んでいました。そのことを話してもらえない高柳が御影に無理にキスをして詰め寄ると、今度は御影が高柳に体を差しだそうとします。すると高柳はそうした自他を省みない御影の行為に傷つき、「何か違う……」と泣き崩れてしまいます。高柳は御影の脆さをなんとかしてあげたい、守ってあげたいと行動していたはずなのに、当の御影は自分を壊す役割を高柳に求めています。大切な人であればこそ相手を壊すような行動はできません。そのズレを朧気ながらも分かってしまったからこそ、高柳は御影の思惑に加担することができなかったのです。

関係の瓦解に端を発している御影の在り方は、確かに変化≒好きという感情に敏感ではあります。しかし瓦解とはそもそも変化≒好きの形の一つに過ぎません。相手を大切に思うのであれば、大抵は寧ろ存続を前提とした変化をしていくものです。そして、瓦解を好きの前提としているからこそ、御影はそんな些細なことにさえ、高柳を傷つけることでしか気づけなかったのでしょう。

このように、1巻と2巻では高柳のキャラクター性こそ変化していないものの、そこに求められる物語での役割は大きく異なっています。1巻は先述した通りカップリング的な、御影の別側面を掘り下げるキャラクターとしての活躍が期待されていました。しかし2巻では明らかに、御影の歪みを明確化し、そこに発生する問題点を身を以て浮き彫りにさせる役割を担わされています。この御影の歪みは2巻においてその背景が補強されたものですから、2巻における高柳の役割の変更は周防姉妹の歪みの明確化に追随する形で行われたものであることが分かります。つまり、1巻では御影というキャラクター像を多方面へ展開させていく役割だったはずが、2巻ではそのキャラクター像が抱える問題点を一点へと集束させ、浮き彫りにさせる役割に変化させられているのです。

さて、御影は自信の失敗に気づいた後、泣き続ける高柳に寄り添いながら「初めてのキス 高柳にあげたよ」と、まるでここにはいない巴に呼びかけるかのように、心の中で呟きます。ここで重要なのは、そもそも先にキスを求めたのは高柳の方であったということです。体を求めようとする役割を高柳が担っていることも踏まえると、実は高柳が単純な被害者として扱われているわけではないことがここから窺えます。実際、彼女は周防姉妹の関係に無理矢理割り込もうとしたために言葉よりも先にキスという結果を求めてしまったわけで、その罰として御影の欲求に晒されてしまったとも考えられます。御影の言う「初めてのキス」は、御影と高柳が互いを傷つけ合った結果として、彼女らの間で永久に残る溝になってしまったのです。第8話の『彼女たちの秘話』というサブタイトルは、まさにこの両者の間でしか共有されない、どちらのものとも言えない傷を象徴していると言えるでしょう。

第8話の後、高柳が御影と共に行動する様子は描かれなくなります。最後に二人が一緒に登場するシーンは、第10話「駆ける晩冬」の中盤です。このシーンでは、巴に引っ張られ家に帰っていく御影の様子を目撃した高柳が、「今度は御影の番だよ!」と御影に呼び掛けています。高柳は御影の思想の破綻を身を以て体現しているので、今度は御影が巴の思想の破綻を証明しなければならない、それを察しての応援でしょう。126Pを見る限り買おうとしていたのはいiTunesカードか何かのようで、これは最終話「芳花の先へ」冒頭で御影がiPodらしき機械で音楽を聴いているシーンに繋がっています。御影との間に横たわる溝が決定的なものになってしまった今、彼女は音楽を聴くことでその溝を一人で埋めるしかない、それを象徴するようなシーンと言えます。

その他、巴の卒業式後に御影からのお土産を頼み忘れるシーンは存在するものの、そこに御影を強く想う様子は見受けられません。「あんなひどいことをしてしまったのに…高柳は友達のままでいてくれた」と御影は第9話「彼女の美しい庭」で回想していますが、これは高柳の側からすれば第8話の事件が二人の関係を「友達」に固定してしまったとも考えられます。それでも高柳自身がそれを良しとした以上、その距離感こそが彼女らの間で遂に共有し得たものだったのです。

さて、この加害者と被害者、罪と罰の共有には、実は一つの狙いが存在します。それは、先述した御影の問題点を浮き彫りにさせるという一方的な役割を軽減させるというものです。もしも高柳が御影に一方的に弄ばれる被害者として描かれていれば、高柳は御影の抱えるテーマに飲み込まれるだけのキャラクターとして終わっていたでしょう。しかし実際には、高柳は自ら無理矢理ながらも御影に好意を伝え、体を求め、傷を負いながらもその結果を御影と共有することができています。この時点で高柳は単にテーマに踊らされたキャラクターではなく、自身の望みを全うすることができたキャラクターとして自立することができたのです。先述した卒業式のお土産のシーンも、その視点を踏まえると、御影のお土産を忘れてしまえる程度には傷を乗り越え、御影との関係性の中で自身を見失わずに生きていけるようになった証拠と解釈することも可能になるのです。

高柳についてまとめておきましょう。1巻の時点ではカップリングを枠を広げるキャラクターとして描かれていた彼女でしたが、2巻では一転して御影の問題点を浮き彫りにさせる役割を担わされました。しかし、そこでは御影と高柳が互いに加害者であり被害者であることによって、その罪を共有している様子が描かれています。この罪の共有は、高柳を一方的に御影の抱えるテーマに踊らされるのではなく、一人のキャラクターとして最後に自立することを可能にしたものでもあったのです。

 

次は九条について見ていきましょう。高柳が御影に対応したキャラクターであったように、九条は巴と対応したキャラクターとなっています。そして、その作中での役割の変遷もまた、高柳と対を為すような構造になっているのです。

九条は巴と同じ高校に通っている同級生で、巴とは高校入学からの付き合いです。1巻では巴の親友として登場し、御影に振り回されつつも父親から独立するために努力し続ける巴を支え応援するキャラクターとして描かれています。大人しめな性格ながらも巴の話を最後まで聞いた上で優しく会話をリードでき、時には巴をほんの少しからかってみせたりもします(ナツオ曰く妻タイプ)。巴も九条も押しの強い性格ではないため、ゆったりとした空気感でのやり取りがよくなされます。

1巻における九条は高柳と比較しても、所謂当て馬的な要素はそれほど強くありません。九条自身が巴に強く惹かれているというよりは優しく支え見守るポジションで描かれていますし、巴もナツオに対して九条は彼女ではないとはっきり否定しています。巴の陰陽を見せるような役割は持っていないものの、他のキャラクターに振り回されがちな巴を助ける数少ないキャラクターとして、やはりカップリング的な幅の広がりを期待されている立ち位置だったと言えるでしょう。

九条も高柳同様、2巻ではその役回りが大きく変化します。高柳と違うのは、九条の巴に対する心情までもが2巻においては大きく変化していることです。第8話では、「好き」という気持ちを分かるようになるにはどうしたらいいかナツオからアドバイスを受けた巴が、九条との関係を意識し始める場面から二人のやり取りが始まっています。ナツオのアドバイスは「好き」なものを一つ一つ見つけていけば「好き」の種類が分かるかもしれない、というもので、このアドバイスを機に巴は九条との関係からも「好き」を見出し始めます。九条は巴の話を遮らず聞いてくれるため、巴は居心地の良さを覚えるようになっていたのです。対する九条は、県内の大学を一緒に受けないか巴に提案します。巴は遠回しに好意を伝えてきた九条に戸惑いつつも、少しずつ彼女への想いを募らせていきます。

余談ですが、ここでの巴の「で、でもそれって九条が私に合わせてくれ…」については少し想像の余地があります。巴は1巻では父親から離れるために県外の大学を志望していましたし、それが判明する模試の場面では九条に点数で勝っていました。「九条が私に合わせ」る必要があったのは大学の志望先を県外にして欲しいという意味なのか、それとも巴と九条には学力で差があるため巴のレベルに九条が合わせるのが大変ではという意味だったのか、ここだけではやや判別がしづらいのです。ただ、2巻では県外の大学に未練がある様子は見られませんし(後述するとおり結論としては県内の黄城大学を受験しています)、1巻ラストで県外の大学に行く≒家を出ることを話した際に御影をつっぱねきれなかったことを踏まえると、2巻の時点では既に御影のことが気にかかって県外の大学受験は既に諦めていたのかもしれません。

閑話休題、巴は県内の黄城大学を受験する決心を固め、秋頃(木の葉が落ちる描写や面談等のタイミングを踏まえると恐らく11月頃?)に願書を書いてしまいます。それを見た九条は巴の願書を受け取り、自分も願書を書いて一緒に提出すると走り出します。慌てながら廊下を走っていく九条の背を眺めながら彼女への想いを更に深めていく巴でしたが、この後状況は一変します。

センター試験も終わった2月、九条は忘れ物を取りに行くからと巴を夜の高校に呼び出します。そこで九条はなんと巴の黄城大学の願書を机から取り出します。提出期限は昨日終わったと告げた九条は、巴の前で願書をバラバラに破り捨てると自らの想いを巴に告白します。

こうした九条の行動はかなり衝撃的ではありますが、その分冷静に読み返す必要がある部分でもあります。まずは九条が巴との愛を「成就」させるために取ったプランを整理しましょう。九条は入学したときから巴のことが好きではあったようです。と言ってもその内実は「何かのために頑張って張り詰めている巴が好き」というものだったようで、巴を努力させ続けるために九条も幾分か努力を、あるいは無理をしていたことが窺えます。そうやって積み重ねた時間を壊すことで、お互いの想いを永遠のものとして刻み込もうというのが九条の目的だったようです。愛する誰かとずっと一緒にはいられないし、どこかで必ず終わりが来る。ならその終わりをせめて"お互い"の手で、最も美しい形で迎えようという思想がそこにはあります。

以上を踏まえた上で、もう少し細かい部分をページ単位で確認していきましょう。まず注目したいのは106Pの「他の誰かとはできない」という部分です。九条にして見れば巴はただ一人の相手でしょうが、巴は一見して九条だけが唯一の相手というわけではありませんし、九条もそれは理解しています。ここでの意味合いは恐らく「巴の意思を尊重し続けることである意味での理解者になろうとしたのは九条だけ」ということなのでしょう。他のキャラクターは多かれ少なかれ巴に何らかの変化を望んでいたのに対し、九条は巴に歪みがあるのを恐らく理解していながら、それを好いたが故にそのまま育て上げようとしたのです。その意味で巴にとって九条は居心地のいい存在でしたし、理解者でもあったのでしょう。

次に107Pの「私自身もとても奮い立たせられたわ」ですが、ここは単純に九条が巴の学力や方針を応援しついて行くのに苦労したということ以外の意味合いも恐らく含まれています。巴が他人にも普通であることを押し付けていることについては先述しましたが、そうやって「普通」を押し付けられる役目を九条が買って出ていたともこの台詞からは解釈することが出来ます。終盤で九条がナツオ相手に口にする「『私も』傷ついたわ」という台詞は、別れる痛みを分かち合う以前の段階として、お互いの思想をお互いに押し付け合っていた3年間だったということでもあったのでしょう。

110Pの「お互いの気持ちがつながって…二人の扉が開くの」についても注意しておく必要があります。九条は相互に感情を共有できていることを常に強調しています。そのためには勿論ですが、巴と同様の痛みや苦しみを九条も抱え込んでいなければなりません。先述した巴からの「普通」の押し付けもその一つですが、九条の思想においては巴と九条の関係はこの瞬間においても恐らく完全に釣り合いがとれたものになっています。つまり、九条と同様に巴もひどいことをしていなければこの関係は成り立たないのです。

ここで、今一度九条が巴に同じ大学を受験しようと提案した場面に注目すると、九条というキャラクターの全貌が少しずつ見え始めてきます。巴が口にしようとした「で、でもそれって九条が私に合わせてくれ…」がもしも九条の学力を心配してのことであったなら、九条は元々巴に釣り合う学力を持っていなかったことになります。九条が巴の良きライバルでいられたのは、九条が元々頭の良い生徒だったからではなく、巴のためにそうであろうと無理をしてきた成果だったからとも考えられるのです。仮に九条と巴が無事に黄城大学を受けられたとしても、あるいは九条は合格できなかったかもしれません。

また、九条が努力してきた3年間が全てこの一瞬のためにあったとするなら、九条と巴の思想が根本的に噛み合っていないこともこれまでの情報から分かってきます。関係の崩壊を恐れるが故に「普通」であり続けようとする巴と、永遠に続くもの≒「普通」などないからせめて壊れる瞬間をこそもっとも美しくしたいという九条は、目指すものが正反対なのです。更に言ってしまえば、九条が(形がどれほど歪んでいるとはいえ)巴を愛していたのにもかかわらず、巴は第10話後半で御影に対し「なのに九条は『友達』でいてくれなかった…」と発言しています。理由は後述しますが、巴が九条に対し想いを募らせていったとしても、それは実は友達の段階で止まってしまうものであり、仮に願書の出来事が無かったとしても九条の愛が成就する可能性は低かったとも考えられます。要するに、巴と九条はその思想から互いへの想いの深さ、そして学力面での進学先まで、根本的に噛み合うことのない二人だったと言えるのです。

そうなると、巴が九条に対して何をしたのか、その内実も明らかになってきます。巴は自身に近づいてきた九条に対して「普通」であること(自分を支え応援し続けること、自分と同じように勉学に励んでくれること)を無自覚に強要し続けたのです。勿論九条本人が望んで巴に接近したのですから大方は承知の上だったでしょうし、寧ろ巴を支え応援することでそれを助長させようとしたのも確かですが、それでも形の上では巴が九条にそういった価値観を望まないままに押し付けて傷つけたという構図は成り立ちます。重要なのはまさにその構図の成立そのものであり、たとえそれを快楽としていたとしても九条は「傷ついた」ということができます。そして、巴の願書を目の前で破り捨てたことでその構図は完全に逆転し、二人は互いに噛み合わない思想の元に傷つけ合い永遠を刻んだ関係になった、そのように主張することができてしまうのです。

さて、九条が主張し提示した思想に巴がどのような答えを出すのか、それはこの作品の結論にも繋がる部分なので一旦保留するとして、ここでは現時点での九条というキャラクターの全体像について一度まとめておきたいと想います。九条も高柳と同様、1巻においてはカップリング的な幅の広がりを期待されたキャラクターであったことは異論の余地はないでしょう。その上で両者の最大の違いは、高柳が御影の思想の破綻を身を以て体現したのに対し、九条は巴の思想とは正反対のの思想を2巻になってから新たに獲得し、それを以て同じ傷を負わせたという点にあります。言うまでも無いことですが1巻において九条がこうした思想を持っていたと描かれてはいません。全て2巻になって明らかになったものであり、敢えて悪い言い方をするなら後付けされたものに他ならないでしょう。もっとも1巻において高柳の内面がはっきりと描かれていない以上、そうではなかったとハッキリ否定する材料がないのもまた事実であり、その意味で九条もまた変化しつつも一定の繋がりは保たれたキャラクターとして自立してもいます。それは九条が単に巴のアンチテーゼを提示した加害者であっただけではなく、1巻の内容も含めた3年間をずっと傷つけられて過ごしていたと暗に主張することで掴んだものです。高柳が1巻からの所謂当て馬的なポジションをそのまま加害者としての立場に用いることで単なる被害者として終わるずにキャラクターとして自立したように、九条もまた被害者としての時間の積み重ねを提示することで巴のテーマを補強するための一方的な加害者としての変貌を否定し、一人のキャラクターとして自立して見せたのです。

ここまで、高柳と九条という二人のキャラクターについてまとめてきました。巴と御影が2巻でそれぞれのテーマ(思想)を抱え込んだように、対応する二人もそれぞれの役割を用意されました。しかしそれは決してテーマのためにキャラクターを使い捨てるようなものではなく、変化の中にも連続性を伴うことで一人のキャラクターとしての自立を可能にしたものでもあったのです。

では、周防姉妹のテーマと正対した二人以外のキャラクターはどうだったのでしょうか。次章では周防姉妹の父親、そしてナツオとあかりからその答えを探っていきたいと思います。

・父親とナツオ

周防姉妹の父親とナツオに共通している特徴は、これまで解説してきたキャラクターと異なり、互いに1巻と2巻におけるキャラクターの描かれ方に然程差異がないということです。魚の見る夢が2巻で完結していく中で、この二人がどのような存在として作中にあり続けたかを読み解いていきたいと思います。

まずは、周防姉妹の父親からみていきましょう。周防姉妹の解説でも触れたように彼は画家であり、基本的には周防姉妹の住む実家には帰りません。マンションの一室にあるらしい自身のアトリエで絵を描き続けるだけの毎日を送っており、金銭の問題を除いては周防姉妹の面倒を碌に見ていません。また彼は若くして死別した妻の面影を次女の御影に見出しており、御影が自らアトリエに来たときには彼女をモデルにして絵を描くなど、父親として一線を超えかねない行動に走っています。姉の巴は父親を激しく嫌悪し、妹の御影も父親の絵に惹かれアトリエには会いに行くものの、父親そのものへの恐怖は残り続けています。

父親は周防姉妹とのやり取りしか作中ではほぼ描かれないため、必然的に巴と御影それぞれとの関係性に注目することが彼を読み解く鍵となります。分かりやすく整理する都合上、今回は御影との関係性から見ていきたいと思います。

さて、御影は父親が差し向ける情動に恐怖しつつも、一方でアトリエには度々足を運んでしまっています。これは一見して矛盾しているように見える行動です。父親に会いに行く理由は複数語られていますが、「父親の絵が好きだから」という理由は物語の節々で登場します。その他、1巻第5話では(恐らくは巴に対しての)強がりのため、2巻第9話では「巴とは違って吹っ切れているから」、という理由が各所で語られています。ただ、依然として父親から歪んだ思いを差し向けられ続けている中で、それを完全に無視しきれていないにもかかわらず会いに行くことをやめず、あまつさえモデルを買って出てしまうというのは、先述した理由だけでは説明しきれないのも確かです。

少し飛躍した読みかもしれませんが、これは御影の抱える思想に注目することで説明することができると考えています。御影が自他共に崩壊してしまうような在り方を欲していることは今まで繰り返し述べた通りですが、御影にとって父親の歪んだ想いは自身を苦しめた元凶であると共に、姉と二人だけで過ごす、お互いの想いが育まれた実家という空間を作り出した遠因でもあります。御影という少女の価値観は良くも悪くも父親の存在無しには成立しないものなのです。だからこそ御影は父親の存在を完全に否定することなく、また自身の欲求を満たす意味でもアトリエに足を運んでしまうのでしょう。

そしてこれは、御影が父親の絵を好んでいるという事実にも少なからず絡んできます。父親がどのような絵を描いているのか、詳しいことは本編では語られていません。ただ、妻と死別する前は風景画を描いていたこと、そして御影をモデルにしても毎回全く別の絵が完成すること、そして2巻83P、160P等で実際に見ることのできる絵を見る限り、少なくとも写実的な絵画ではない、恐らくは抽象画寄りの絵をよく描いているようです。ともあれここで重要なのは御影をモデルにしているにもかかわらず違う絵が完成してしまい、しかもその制作中に父親が昔の情動を思い出しているということでしょう。御影をモデルとしながら、御影とは異なる絵。それは、父親が御影を妻とすげ替えるような扱いをしていることとも繋がっています。御影がそうして完成した絵をそれでも好きということは、彼女が自他に崩壊を求めていることとやはり無関係ではないのでしょう。

続いて巴を見ていきましょう。巴の場合は父親に対しては「普通」を破壊した人間に対する嫌悪しかないため、基本的には話もしたくないといった態度しか取りません。2巻では県内の大学を受け父親と学校の面談に出るなど多少のコミュニケーションは取っていましたが、物語の終盤では御影をモデルに絵を描き終えた父親を後ろから殴打してしまっており、最後まで断絶したままになっています。

注目すべきは、父親の巴に対する感情でしょう。巴と異なり、父親は巴に拒絶されていても巴のことを嫌ってはいません。自身が仕事にかまけ親としての責務をほぼ放棄しているため嫌われていることそれ自体は半ば受け入れたも同然ですが、一方で巴に無関心であっても会うことそれ自体はそれなりに楽しみにしている様子が窺えます。

その理由は、父親が巴のことを自分に似た存在だと思っているからのようです。髪質や目元がそっくりと言ってはいますが、どちらかと言えば内面的な部分で似通っているということを特に重要視しているようで、「あいつの本質は俺なのに、俺にならないように嫌って生きてるなんて健気じゃないか」といったような発言もしています。その後父親は「俺じゃ…駄目なのかな」と、御影に改めて関係を迫っています。これは巴の本質が自分であるように、御影の本質は妻の「かえで」であることを改めて主張するものでもあるのです。

さて、ここで一度父親というキャラクターについてまとめておきましょう。巴を自身と同様の存在と見なした上で、妻の面影が重なる御影に関係を求める。逆説的に言えば、巴は普通を希求するキャラクターであり、その根源は自分にあると父親が考えていることになります。極端な言い方をすれば、父親にとって御影が自分の妻に重なる存在として自分に寄り添うべき、という考え方は、実は父親にとってそれが「普通」とは言わないまでも自然な形であるからに他なりません。かつて夫婦という形で周防夫妻は「普通」として完成していました。それが失われた今、父親は御影を妻と見立てることでもう一度以前の「普通」を取り戻そうとしています。巴と父親が根本的に似通っているというのは、そういった思想的な側面によるものなのでしょう。なお、その上で巴と父親がどのように異なっているのか注目することで新たに見えてくるものもあるのですが、こちらについてはまた別の章で後述することとします。

続いてナツオを見ていきましょう。黒川夏乃(ナツオ)は御影と同じ高校に通う高校三年生で中学生の頃は巴と同級生でした。よく言えば自由奔放、悪く言えば不真面目かつがさつな性格で、どのような相手にも好き勝手に距離を詰めてはフランクに接しようとします。同級生だった頃には巴の視力が落ちた際に眼鏡を買う手伝いをしたことがあったらしく、先述した性格から微妙に疎まれてはいるものの、巴との友達と言えるような関係は現在も続いています。現在は高校の生徒会長であるあかりと付き合っており、真面目な性格のあかりを校舎裏に連れ出したり、反対にこだわりを見せない性格を批難されてあたふたしたりしています。

ナツオも父親と同様、1巻と2巻でそのキャラクター性が大きく変わることはありません。彼女の最大の特徴は、自他に自由であることを求める、という部分でしょう。常に不真面目で自由奔放なナツオは、不自由である相手を自由にすることで自身の気持ちを表明する傾向にあります。例えば巴に対しては、他人を寄せ付けない雰囲気を無視して親しくなろうとしたり、眼鏡を買ってあげたりすることで巴の不自由さを少しでも緩和させてあげようとしています。現在の彼女であるあかりに対しても同様で、生徒会長という役職の不自由さから解放させてあげようとするかのように校舎裏に連れ出して二人だけの時間を過ごそうとしています。他者を不自由から解放することで自身の好意を表現しているのです。一方で、相手が自由になった後はそれ以上何かを強く求めない、という側面も存在します。親友と言っていた巴についても別々の高校に進学することにはためらいがなかったようですし、2巻冒頭のあかりとのやり取りでも、あかりに似合うヘアバンドを結局決めることなく、野脇の花をあかりの頭にこっそり飾ってあげたりしています。自他を自由にする代わり、それ以上の何かを求めることもしない、これがナツオの基本となる思想なのです。

さて、そんなナツオが唯一彼女らしからぬ会話を繰り広げたのが、2巻終盤での九条とのやり取りです。巴が御影と共に生きていこうと走り去る様子を見届け、その場を去ろうとする九条をナツオは強烈に批難します。と言っても九条はそれに堪える様子もなく飄々と受け答え、寧ろナツオの方が怒って感情を揺さぶられている様子が描かれています。

一見九条というキャラクターが最後に何を思っていたのか掘り下げるためだけのシーンにも思えますが、実はここでナツオが九条を批難することにもちゃんとした意味があります。というのも、互いに「刻印」を刻むことで自他を不自由な関係にしようとする九条と、自他を不自由から解放する代わりにそれ以上の何かを求めないナツオは、巴と九条の関係とはまた異なるベクトルで相対する関係だからです。

上記した内容を踏まえた上で、二人のやり取りをもう少し細かく見ていきましょう。155Pで「『私も』傷ついたわ」と発言した九条に対し、ナツオは「やっぱりお前は間違っている…!」と更に語気を強めます。この辺りは、先述したように傷つけ合うことでしかわかり合えない九条と、自由にする代わりにそれ以上の干渉もしないナツオの思想の違いが表れています。また、九条は156Pで「あなたずいぶん優しいわ。昔の巴はあなたにとても救われていたのでしょうね」とナツオに返しています。ここはやや皮肉な言い方をしています。巴は確かにナツオに眼鏡の購入を助けてもらったり、好きという気持ちに関するアドバイスを受けたりしていましたが、彼女の根本的な問題には向き合っていなかったのです。対する九条は巴が頑張り続ける≓不自由であり続けるように支え続けましたが、一方で様々な問題に悩まされる巴に寄り添い続けました。ナツオは確かに巴を傷つけたりしてはいませんが、その代わり巴を支え続けるという意味で彼女に寄り添うことはしなかったのです。それを九条は「優しい」と表現しています。自他を自由にするということ、それはお互いを甘やかすと言い換えても良いかもしれません。ある意味で巴はナツオに救われたのかもしれませんが、それ以上に前に進むことは(ナツオの手によっては)できなかったのです。九条が遠回しに批判しているのはまさにそこで、これによってナツオと九条の相対する在り方が等価に明示されたとも言えるのです。

最後に、ナツオの彼女であるあかりにも触れておきましょう。あかりは御影の通う高校の生徒会長で、真面目ながらもおっとりとした優しい性格をしています。ナツオにはその不真面目さに多少振り回されつつもそれを嬉しく思い、一方で彼女が自分に強く干渉してきてくれないことを時々不満に思ったりもしています。

あかりがナツオと共にいるときだけ不真面目になっているのは、ナツオが相手が自由になることを求めていることの非常に分かりやすい表れです。先述したヘアバンドを巡るやり取りでも、ナツオが自分に過干渉しないことを不満に思い、いつか自分に似合うヘバンドを選ばせてやると決意するなど、ナツオの欠点をしっかり見抜いている様子が描かれています。

常におっとりとしているあかりですが、彼女に特徴的な変化が見られるのも実はナツオ九条のやり取りの最中だったりします。このときあかりは、九条を強く批難するでもナツオの言い分を支持するでもなく、二人のやり取りをじっと見守っています。そして九条が去った後は「でもあの人は試験最後の日程は残していた」と彼女に心変わりの余地があったかもしれないという意味合いの発言をし、それをナツオが突っぱねると「…ムキになって」とこぼします(そしてその後いちゃつきだします)。

何故あかりがここでこのような態度を取ったのかと言えば、それはあかりの考えるナツオの欠点が、九条とのやり取りによって浮き彫りになっているからでしょう。勿論、九条のように違いを傷つけ合うような思想をあかりが支持したとは考えにくいです。しかし、ナツオの欠点を示唆するものとして九条の言い分は有用でもあり、かつナツオがかなりの怒りを覚えている様子からもそのことは傍証できます。だからこそあかりにとって九条とナツオの様子は興味深く映ったのでしょうし、二人の会話が終わった後に九条に理解の余地があることを敢えて言ったのかもしれません。

 ・魚の見る夢における自己中心的な好意と「百合」の関係

ここまで各キャラクターの読解を中心に話を進めてきましたが、本章からはこれまでの内容を踏まえた上で、いよいよ作品全体の読解を進めていきます。

実は魚の見る夢に登場するキャラクターについて、注目すべき特徴が二つあります。一つ目は、自身の境遇やあり方に相手が同調することで自らの好意が達成されたと認識するキャラクターが大半を占めていることです。何を大仰な言い回しで当たり前のことを、と思うかもしれませんが、この傾向に注目することで、実は魚の見る夢という作品のテーマが見えてくるです。

では、該当するキャラクターを簡単に挙げていきましょう。まず周防姉妹ですが、巴は「普通」であることを自他に求めようとしますし、御影は自身を中心とした「普通」の崩壊を他者にも押し付けようとします。そのせいで彼らが失敗し、少なからず傷を負ったと言うことは先述した通りです。九条に関しても、お互いに傷を残し合うことで永遠を作る、という点では自身の考える理想を他者に強制しています。ナツオも同様に、自他共に自由であることを望んで行動します。逆に該当しないキャラクターは、高柳と周防姉妹の父親、そしてあかりの三人です。

こうして簡単に分類してみただけではまだ何も見えてきません。そこでこの作品のもう一つの特徴である「百合」について考えてみたいと思います。この作品の一番最初の前提に立ち戻りますが、本作は百合アンソロジーコミック集『つぼみ』に連載されており、所謂「百合漫画」として作者である小川麻衣子先生ご自身も紹介されています。一方で、「百合」とは主に女性の同性愛を題材とした作品のジャンルとして用いられる言葉ですが、作品のジャンルそれ自体の宿命として細かな定義は曖昧が定められず、かつそうであればこそ多種多様な作品を生み出す枠組みともなっています。したがって、個々の作品ごとに「百合」の実装には特徴があり、それを理解することで作品それ自体のテーマに迫ることも可能になります。

では、魚の見る夢における「百合」、すなわち女性同士での恋愛とはどのようなものとなっているのでしょうか。それを読み解く鍵が、2巻24Pにおける巴と御影の会話には隠されています。

「私とこの先のことがしたいの? 言っておくけどそれは普通のことではないんだよ」

「普通のことって何?」

「だから男の人を好きになることだよ」

「別に体が好きな訳じゃないもん…でも、好きな人とだったら溶けたくなるよね」

このやり取りにおいて、巴は女性同士での恋愛が巴が普段望んでいる「普通」ではないことだと言っています。つまりは巴にとっては男女の恋愛こそが「普通」ということらしいのですが、男女の恋愛とは根本的にその性差から「自分にはないものを相手に求めている」と考えることもできます。それを「普通」と呼ぶのであれば、女性同士の恋愛(百合)、すなわち「自分と同じものを持つ相手を求める」ことは「普通」ではない主張することでもあります。そうした女性同士の恋愛を否定しきらなかった点において、ある意味巴の目指す「普通」は破綻を宣告されていたとも言えるのですが、ともあれここで重要なのは百合がお互いに同じものを求め合う行為であり、つまり先に紹介した「自身の境遇やあり方に相手が同調することで自らの好意が達成されたと認識する」キャラクターの思想とも同調するものであるということです(そうしたキャラクター達は事実他のキャラクターと所謂百合的な関係にあります。)。

ここで一度断っておきますが、筆者は別に魚の見る夢において「百合」が普通のことではないと定義されている、とまで言いたい訳ではありません。実際、高柳やあかりのようにそれを自然に享受している/しようとしているキャラクターも魚の見る夢には存在していますし、後述するように最終的に登場人物達が百合というものを根本的に否定しているわけでもありません。ただ、作品のテーマに百合がかかわっている以上、その作品における百合とは何であるか、それを作品から読解していくことも作品と向き合う上では重要な行為なのです。

さて次は、自身の境遇やあり方に相手が同調することで自らの好意が達成されたと認識しないキャラクターにもう一度注目してみましょう。まず高柳とあかりですが、二人はそれぞれの相方にあたる人物が、自身の境遇やあり方に相手が同調することで自らの好意が達成されたと認識するキャラクターです。そのため高柳とあかりは多かれ少なかれ相手がそうした歪みを持つことに不満を持っていたり、あるいはそれによって傷を負ったりしています。高柳は御影との関係を更に深めようとして最終的に失敗しますが、それは御影の思想による被害を許容しきれなくなったからです。あかりの場合、ナツオのあり方に時々不満は覚えているものの、それを許容できなくなる段階まではいっていません。重要なのはこの許容できるか否かという点で、巴と九条の関係においても二人は最終的に互いのあり方を許容しきってはいません。巴は言うまでもないことですが、九条も先述した通り自身の思想とは合わないはずの巴の「普通」の強要に付き合い、最終的にはそれを破却しています。

このように、自身の境遇やあり方を他者に同調するよう求める行為は、時として他者を歪めてしまう自己中心的な好意にもなりえるもので、それ故に他者がそれを許容できなくなった瞬間にその関係が破綻するという問題点を孕んでいます。もっとも、このこと自体はこの作品に限らず、好意を相手に伝える際に多かれ少なかれ必ず起こる現象です。相手に好意を伝えるだけでも、相手のあり方は多少なりとも変化せざるをえません。それを肯定するにせよ否定するにせよ、そこで両者を繋ぐ関係性の変化が起こってしまうからです。その好意が特に好意を伝えた本人の性質と強く同調するようなものであった場合、それは「自分という存在を許容して欲しい」という赦しの問題にもなります。この問題は魚の見る夢における各人間関係のほぼ全てに共通してみられるもので、これこそが魚の見る夢における基本的な問題提起と言っても過言ではありません。魚の見る夢は、好意を伝える中で自分という存在を如何に赦してもらえるかを問うている物語なのです。

では、そうした百合的な関係の枠組みから外れている周防姉妹の父親はどうなのでしょうか。彼は確かに妻と結婚して以上、元々は「普通」の恋愛をしていた「普通」の人物であると言えます。しかし、彼は妻を失って以降、御影にその役目を押し付けて元の「普通」を取り戻そうとし、また巴も自分と本質を同じくする存在だと言及します。重要なのは、そのいずれもを御影が否定している点です。

「お父さんは巴と似てないし…私の相手はお父さんじゃない。もう自分でだってわかってるくせに…」

これは2巻122Pの御影の台詞ですが、ここで御影は自分は父親の妻「かえで」ではないときちんと表明しています。巴にも御影にも、もう一人の同一の存在などありはしない、と言っているのです。これを先の問題と繋げて考えれば、自分と同じものを持ち、自分と同調してくれるもう一人の自分もまた存在しないということになります。父親は巴と御影からかつての夫婦を再現しようとして失敗していますが、これは同時に他者を自身に同調/同一化させることそれそのものの不可能性をも示唆していることになるのです。

一度まとめましょう。魚の見る夢では、自身と同じものを他者に求める(=好意を伝える)中で、「自分という存在を許容して欲しい」という願いを如何に赦してもらうかを問うていることが明らかになりました。また、他者が自身に完全に同調する、あるいは同一の存在になることは不可能であることも周防姉妹の父親の存在によって示唆されました。では、この物語の主人公である周防巴と周防御影は、一体どのような答えに辿り着いたのでしょうか。その詳細を次章では見ていきます。

・巴と御影が選んだ、変動する関係性と未来

ここからは2巻第10話「駆ける晩冬」の後半から話を読み進めていきたいと思います。九条と高校で別れた巴は、混乱しながらも御影が電話に出ないことに気づき父親のアトリエに向かいます。その頃御影が先述した通り父親の絵のモデルとなっており、彼女が父親の思いを正面から否定した瞬間、アトリエに駆けつけた巴が父親の後頭部を画架で殴打し、御影を家に連れ帰ってしまいます。

帰宅した巴はどうして誰も家族や友達のままでいてくれないのかと御影に泣き叫びます。「友達」だった九条も「家族」だった御影も、あるいは巴を傷つけ、あるいは自身を傷つけ、そうする中で元の関係性では無くなっていく。それが嫌だったのだと巴は告白します。しかし、御影はそれも価値観の押しつけでしかないと反論します。そして、御影のためにも「普通」を守ろうとしていた巴に「私はもう大丈夫…守ってくれなくても…」と言います。

ここは第2話の回想における「この妹は本当に泣きやすい。私がちゃんと見ておかなくてはいけないと思った。ちゃんと」という巴のモノローグと対応しているシーンでもあります。ここで言う「ちゃんと」とは、すなわち「普通」を意味しています。巴は「普通」でい続けるために今まで頑張り続けてきました。それが御影を守るという理由を含んでいたとしても、彼女はそうすることで自分が「普通」でいられるからそうしてきたのです。もし巴が「寂しい」「悲しい」と言ってしまえば、それは彼女が母親のいない家、「普通」ではない家にいることを認めてしまうことになります。そうすればもう巴は「普通」ではいられなくなり、御影を守ることもできなくなってしまいます。136Pのモノローグで御影は「巴はずっと『家』の中にいた。私の代わりに」と言っています。御影が自分を壊すような関係を自他に求めていたことは今まで繰り返し説明してきましたが、もし巴がもっと前の段階で「普通」でいられなくなっていたら、その時点で御影を守る「普通」もなくなり、御影は本当に壊れてしまっていたでしょう(第5話の様子からもそれは傍証できます)。逆に言えば、巴は自身が「普通」を求めなくなったとしても、御影のために「普通」でいなければならない、という枷をかけられていたことになります。御影が自身の思想の問題点と向きあい、他人に自分の思想を押し付けることない一人の人間として自立したことで、巴は「普通」を失い、同時に「普通」から遂に解放されたのです。

さて、この時点で、巴と御影はそれぞれが抱える他者に同調を求める思想と遂に向き合いました。ですが、このままではまだ問題が解決したとは言えません。なぜなら、そのままでは二人は誰とも自分という存在を共有することができず孤独になってしまうからです。ここから更に先に進むため、二人は互いの存在を受け入れようとしていきます。

先ほど巴に「普通」という枷がかけられていた話をしましたが、この時点の巴にはもう一つ枷がかけられています。九条が刻んだ刻印の存在です。「誰とも自分の想いを永遠いに分かち合うことができないなら、せめて通じ合ったその瞬間に別れる」という思想を持っている九条の行動によって、巴は他人と自身の心を通わせようとすることをひどく恐れるようになってしまっています。別れるかもしれない、裏切られるかもしれないという恐怖がそこにはあるのです。御影が「これからの巴にだってそばにいてくれる人はいると想うんだけど?」と自身の存在を仄めかしても、巴は「でも九条は…」と言ってしまう程に、九条の思想に囚われてしまっているのです。

それに対して、御影は「私がいるじゃん!!! 私だったらずっとそばにいてやるわよ!!!」と怒鳴りつけます。御影は15年間の間ずっと巴のそばにい続けており、その中で「家族」という関係性は彼女の中でとっくになくなっていた、と告白しています。御影にとって、永遠に続く枠組みというものは最初からなかったのです。それでも自分は巴のそばにい続けられた、なら巴も変化していくであろう自分と共にいることはできるのではないか、御影はそう言っているのです。自分の思想に永遠に沿い続ける相手を求めるのではなく、時間と共に変化し続ける関係性の中で、それでも相手のことを想い続けたいと、御影は言っているのです。

これからも関係は変化し続けていくでしょうし、「姉」と「妹」ではなくなるかもしれません。それでも私のことを受け入れてくれるかと、御影はそう巴に問いかけます。それを受け入れるため、自分も御影と共に変化していくため、巴は九条の思想に立ち向かう決心を固めます。

物語は第11話に移っていきます。卒業式の日、巴は九条に黄城大学の後期試験を受けたことを明かします。実は九条が残していた日程でもあるのですが、ともあれこれで巴は九条と運命を共にすることなく、刻印の存在に怯えることなく前に進めるようになりました。巴は九条にさよならを告げ、御影の元に駆け寄っていきます。

ここで、卒業式での巴と九条の会話に注目してみましょう。巴は九条のことを恨んではおらず、寧ろ感謝してもいると発言してします。妹への想いは自覚しつつも「普通」であるためにそれを抑えていた巴にとって、九条は初めて「普通」のまま甘えられる存在だったのです。第9話の冒頭で、御影の裸を見た巴が第7話の頃よりも照れているのも、九条に甘えていた経験があってのものでしょう。それでも結局は裏切られたのだから、自分を全て相手に委ねようとしてはいけないという結論に巴は辿り着いたようです。

そして別れ際、巴は九条に何故どの大学も受験しなかったのかと尋ねつつ、九条のことは最後まで分からずじまいだったと背を向けながら言います。九条はどの大学も受験しなかったのは、巴が自分と同じようにどこの大学も新たに受けることはないと考えたからでしょう。九条の永遠に同じものが続かないのなら綺麗に終わらせてしまえばいいという考え方は、未来そのものを閉ざすことにも繋がります。それを最大化しようとするのであれば、大学の受験をしないというのは確かに一つの方法ではあります。九条は巴が自身と気持ちが通じ合ったことで、同じように大学を受験しないまま卒業すると考えたのです。しかし巴は大学を受験し、変動していく未来を御影と歩んでいく決心を固めました。これによって九条は巴と通じ合っていなかったことになり、彼女の目論見は頓挫します。九条のことが分からなかったという発言は、それを示唆するものでもあったのです。

なおそうして巴と別れた九条でしたが、お前はこれからひとりぼっちで生きていくがいいよと発言したナツオに対し、「果たしてそうかしら?」という言葉を残し、物語から退場していきます。これは恐らくですが、もしもこの先関係性が変化していく中で巴が御影と一緒にいられなくなるときが来たら、そのときは私のことが分かるようになるはずだ、そう思ったのかもしれません。巴がまた何かに絶望し、九条のことを理解するようになる可能性もある、その想いを胸に秘め、九条はこれからも生きていくことになるのでしょう。

一方の巴は、九条に別れを告げられたことを喜びつつも、本当は辛く悲しかったことを御影に打ち明け、少しの間御影に慰めてもらいます。そして周防姉妹が、どこかへ旅行へ行くのか、制服のまま荷物を持って駅の改札へと向かっていくところで魚の見る夢は終わります。

では、ここまでで一度巴と御影が選んだ答えについてまとめておきましょう。魚の見る夢では、自身と同じものを他者に求める(=好意を伝える)中で、「自分という存在を許容して欲しい」という願いを如何に赦してもらうかを問うていると前章では書きました。その問いに関して、巴と御影は結局それぞれの持つ思想の歪みを他者に全て押し付けることは一度諦めました。ですが、それだけでは答えにはなりませんし、自分の歪みを自分だけで支えるひとりぼっちの存在になってしまいます。だからこそ、彼らは順番を逆にしました。自分を全て委ねられる人間を好きになるのではなく、自分と一緒に生きていってくれる人間、自分が大切にしたい人間と共にいることを選んだのです。それは自分本位で物事を考えるのではなく、目の前にいる相手ときちんと向かい合うことでしか叶わないことです。そうして一緒にいたいと思える人間同士であれば、互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける、それが周防姉妹の手にした答えであり、魚の見る夢という作品が提示した答えだったのです。

ただし、この魚の見る夢が提示した答えは実はまだ終わっていません。一緒に生きていける人間を選んだことで周防姉妹はその後どうなっていったのか、そして周防姉妹のように一緒にいられる誰かを見つけられなかった人間はどうなっていったのか、それらを「魚の見る夢」という作品のタイトルなどを踏まえながら次章では見ていきたいと思います。

・「普通」と「海の底」~息苦しさの共有~

魚の見る夢エピローグ「ある夜の日」では、恐らくは最終話以降の周防姉妹の、ある冬の夜の様子が描かれています。4ページ程の短いエピローグですが、これはこれで重要なお話なのでしっかり追っていきましょう。

ある夜、窓の外で雪が降り始めた頃に、二人の会話が始まります。季節折々に変わる空気の重さについて御影が話し始め、巴は1巻で御影が買ってくれた観賞用の藻の水を入れ替えながらその話に応じます。その後二人は雪の降り積もっていくベランダに出て、次のような会話を交わします。

「透明な水の底にいるみたいで手も耳も痛くて身体中がちぎれそう」

「水の底…そういえば海の底にも雪が降るっていうよね」

「そうなの?」

そうして巴が寒くなってきたから戻ろうと提案するも、御影は巴に寄り添いながらもう少しだけ外にいようと提案。二人は次第に頭に雪が積もり始める中、寒さに耐えて雪の降る夜空を眺めています。最後にもう一度観賞用の藻がアップになったところで、エピローグ「ある夜の日」は終わります。

本題に入る前に、一度状況をまとめておきましょう。まず本編終了後と先述しましたが、具体的にどれぐらいの時間が経った頃かは不明です。卒業式、二人が旅行(?)から帰ってきた後に雪が降ったのでないとすれば半年以上の時間が経っていることになります。次に二人のいる場所ですが、恐らくは自宅で間違いないでしょう。自宅には一応2階にベランダがあるので(2巻128P参照)、その一室で交わされたやり取りと考えるのが自然なはずです。総合すると、最終話の後、巴は大学1年生に、御影は2年生になった後の真冬の頃と考えるのが一番無難ということになります。

さて、このエピローグで最も重要視すべき箇所、それは先ほど抜粋した会話の部分です。一見空気の重さ、息苦しさを水や海に例えて放して見せただけの部分に見えますが、ここには魚の見る夢のテーマにかかわる重要なヒントが隠されています。それを解き明かしていくために、一度1巻の冒頭まで立ち返り、魚の見る夢における「水」、ないしは「海」に関する描写を振り返っていきたいと思います。

第1話の冒頭で、巴は自分が魚になり、海の底で首輪に釣られようとする夢を見ます。ここで巴が海の底について「息苦しい」と言っていることが重要です。この息苦しさはエピローグで御影が言っていた空気の重苦しさにも繋がるもので、ここでは「魚の見る夢において海の底は息苦しい空間である」ということを一先ず念頭に置いて話を続けます。そしてエピローグではその海の底に見立てた冬の夜に周防姉妹が二人っきりで寄り添っていたということも同様に覚えておきましょう。

次に、第2話で周防姉妹が水族館に行ったシーンを見てみましょう。巴が水族館の水槽を眺めながら子供の頃の思い出を話すと、それに対して御影はこの水族館が母親が生きていて家族全員の仲が良かった頃の家族の象徴、つまりは「平和の象徴」だと言います。そして巴が幼い頃の思い出を懐かしそうに楽しそうに話す一方で、御影は楽しかっただけで退屈な思い出だと、巴はあの頃に戻りたいのかもしれないが自分はもう戻りたくないと言います。御影が戻るのを拒んでいるのが平和だった頃の家族であるなら、それは同時に巴が望む「普通」に仲のよい家族のことでもあります。御影がその「普通」の家族の象徴として水族館を見立てたのなら、この会話の交わされている背後にある水族館の水槽こそが「普通」の象徴である、ということになります。ここ注目すべきなのは、ここで描かれている水槽にいる魚は深海魚ではなく、恐らくは比較的浅い海に生息しているであろう魚だということです。言い換えれば、海の底(深海)ではない浅い海は、巴が本来望んでいた「普通」の場所ということになるのです。その他には水槽という枠に囚われた空間であることも「普通」ないしは「平和の象徴」にかかわっている要素ではありますが、ともあれここでは深海ではない浅い海は「普通」の場所であるということがここでは重要になってきます。

魚の見る夢における海、ないし水に関する主なシーンは上記の三つです。これらをまとめて考えると、魚の見る夢では海は深海とそうでない浅い海の二つに分けて考えられ、浅い海は巴にとって「普通」の場所、深海は「普通」ではない、巴にとって息苦しい場所ということになります。そしてエピローグではその深海で周防姉妹が二人っきりで寄り添っているのです。端的に言ってしまえば、周防姉妹は「普通」であった水族館、つまりは「家族」という枠組みから解放されることで、「普通」ではないあり方に二人で向かっていった(海になぞられた言い方をするなら沈んでいった)ことになります。

では、周防姉妹が何が「普通」ではなくなったのでしょうか。それはやはり、二人の関係性でしょう。筆者は魚の見る夢において百合が「普通」ではないことだと定義されていると言いたいわけではないと先述しました。ただ、周防姉妹の場合はそれに加えて血の繋がった姉妹同士での関係も持とうとしています。「一緒にいたいと思える人間同士であれば、互いの抱える歪みや関係性の変化も分かち合って一緒に未来へと生きていける」というのが、周防姉妹の選んだ答えでした。どのような関係性の変化があったとしても一緒に生きていきたいという二人の想いが、結果としてそうした関係性をより先鋭化させていったような形になっていったのでしょう。

深海は光の届かない、暗く寒い世界です。他の生物と遭遇する機会が近海に比べ極端に少ない、生きていくにはとても過酷な環境でもあります。では、周防姉妹がそんな世界にいるということは、二人が選んだ答えに対する罰なのでしょうか。筆者はそうは思いません。周防姉妹は冬の空を寒く辛い場所であると認めつつも、二人で寄り添ってその世界から離れようとはしませんでした。確かに二人が選んだ答えに他者が割り込む余地はなく、巴と御影は二人だけの世界に追いやられてしまったのかもしれません。しかし忘れてはならないのは、巴と御影はまず一緒にいられる相手としてお互いを選び、二人でならどのような関係性の変化があっても生きていけると考えたのです。二人の関係性は二人を他に誰もいない世界に追いやったかもしれませんが、それでもお互いがちゃんと傍にいるからこそ、二人には確かな未来が約束されています。エピローグの最後に描かれた観賞用の藻は、二人が共に生きてきた時間と、これから共に生きていく時間の双方を、それぞれ暗示しているのです。

さて、エピローグも含めた巴と御影の選んだ答えに関する読解は終わりましたが、まだ一つ考えなければならない問題が残っています。周防姉妹はどのような関係性になったとしても二人なら生きていけると考えましたが、ではもしそういった相手を見つけられなかった人はどうなってしまうのか、ということです。この問題については、高柳と九条、そして周防姉妹の父親の三人に注目することで考えていきたいと思います。

まず高柳ですが、彼女は他の二人と比べて彼女自身の思想やあり方に囚われすぎてはいません。最終話で一人で音楽を聴いていた描写からも示唆されているに、彼女は一人で自立することができているキャラクターでもあります。御影からお土産がもらえることを約束せずとも信じているように、御影との関係も友達という形では依然として維持できています。苦い経験をしてしまった高柳ではありましたが、御影がその経験のおかげで前に進めたと言っていたように、高柳も自分で生きていける強さを身につけられたのかもしれません。

続いて九条を見てきます。九条は結局どこの大学にも進学しないまま、飛行機に乗ってどこかへと消えていってしまいました。先述した通り九条は巴がいつか自分が理解できるようになる日が来ることを予想しているので、目論見が頓挫したとしても彼女にはまだ生きる理由が存在します。最後までナツオやあかりと話していた高柳とは違い、飛行機に乗って旅立つことで完全に他のキャラクターから切り離された九条でしたが、いつか巴が自分を理解する可能性を希望としてこれからも生きていくであろうことをその様子から読み取ることができるでしょう。

最後に周防姉妹の父親ですが、彼の場合は妻を永遠に喪ってしまった後なので、これからも一人で生きていくしかなくなっています。実際2巻ではもう死に時かもしれないと御影に漏らしていましたが、最終話では無事個展の開催までこぎ着け、好評を得ています。重要なのは、巴に殴打された傷をいたく気に入り、御影に関する言及があまり見られなくなっていることでしょう。御影については自身の想いを真っ正面から断ち切られたため一定の踏ん切りがついたのでしょうが、一方で巴については自身を殴打したことについて何かしらの変化があってこそのものと考えているようです。恐らく、自分を殴り倒してまで御影を助け出したことで、巴が自分と同じような存在ではなくなったという確信を得たのでしょう。彼が今後どこまで一人のまま生きていけるのかは分かりませんが、それでも周防姉妹の未来を応援することができるようになったところで父親は物語から退場していきます。

以上、三人の最後の様子を見てきました。気になるのはやはり九条と父親の二人でしょうか。周防姉妹に少なからず精神的な傷を負わせてきた二人でしたが、その報いを受けたと考えるには、どちらも明日を生きていけるような素振りを最後に見せているのが印象的です。その理由は、やはり巴と御影が選んだ答えにあります。周防姉妹と先述した二人の最大の違いは、お互いを許容できる相手を最後まで見つけ出せなかった(あるいは喪ってしまった)ことにあります。ただその点を除けば、実は周防姉妹が最終的に辿り着いた関係性と、九条や父親が求めようとした関係性には本質的な違いはないとも考えられます。周防姉妹はお互いがお互いを赦し合えたからこそその関係性が許容されましたが、そうでなければ九条や父親と同様に誰かを傷つけることになってしまうからです。それが分かっていればこそ、周防姉妹は二人を自分達から遠ざけたものの、それ以上の報いを与えようとはしなかったのでしょう。

・まとめ~テーマの集束と共に自立していくキャラクター達~

ここまで、魚の見る夢における各キャラクターの変遷と、そこから読み解くことのできる作品のテーマについて解説してきました。最後に、もう一度作品全体を俯瞰し、魚の見る夢がどのような作品であったかをまとめることで本記事を終わりにしたいと思います。

魚の見る夢は、自身と同じものを他者に求める(=好意を伝える)中で、「自分という存在を許容して欲しい」という願いを如何に赦してもらうか、という問いを物語の中で作り上げました。これは1巻の頃から明確に提示された問いではなく、作品が2巻で急遽完結していく中で次第にその輪郭をあらわしていったものでもあります。そして、巴と御影という二人の主人公はこの問いに対し、一緒にいたいと思える相手同士であれば、互いの抱える歪みや変動していく関係性を許容して生きていくことができる、という答えを出しました。

実はまだ一点だけ、ここに関して説明が足りていない部分があります。それは、二人が自分の思想を一度捨てて相手と向かい合うには二人が自立している必要がある、という点です。現代社会の中で本当にひとりぼっちで生きていくことはとても難しいことです。しかし同時に、自身の持つ歪みと向き合い、一時的でもそれを制御して相手のことを正面から受け止める状態にならなければ、巴と御影が出した答えは達成できません。御影は高柳との一件を経ることで、巴は九条の刻印を振り払って大学の後期試験を受けることでそれぞれ自身の歪みを一時的にでも乗り越え、共に生きていく姉妹として互いのあり方を受け入れることに成功しているのです。

そして実は、こうしたキャラクターたちの自立は、巴と御影に限らず他の多くのキャラクターが作中で達成していることでもあります。例えば高柳や九条はそれぞれが加害者兼被害者として自らの自主性を得たことで一人のキャラクターとしてのあり方を再獲得していますし、ナツオや周防姉妹の父親に関しても各々が相対するキャラクターと向かい合うことで、自己のあり方を振り返る機会を得ています。「赦し」を求めようとするキャラクター達にとって、自立するということは決して終着点にはなり得ません。しかし、自立することで彼らは自分なりの答えを得るきっかけを手にしています。そういった意味では、作品が自らに課した問いへの答えがその途上で自立を必要としたように、作品内におけるキャラクター達も巴と御影という主人公達だけに留まらない、各々の自立を達成することで作品の面白さや奥深さをより深めることに成功しているのです。

そしてこのことは、魚の見る夢という作品がテーマを手にするまでの過程そのものにも当てはめることができます。先述した通り、魚の見る夢は百合アンソロジーコミック集『つぼみ』に不定期連載された作品です。百合関係の漫画を連載する雑誌に掲載された以上、魚の見る夢は最初から百合漫画として作中にその要素を内包していました。しかし2巻において、魚の見る夢は女性同士で恋愛をするということについて、今一度疑問を投げかけます。それは百合を否定するためではなく、魚の見る夢という作品がそのテーマの輪郭をよりはっきりとさせるために行ったものでした。最終的に魚の見る夢は作品としてのテーマを明確化させ、そこに今一度百合としての主人公達の関係性を取り込むことで物語を完結させました。掲載された雑誌によって最初から用意されたジャンルとしての百合に敢えて疑問を投げかけることで、魚の見る夢は作品としてのテーマを獲得し、更にはそのテーマを完遂するための答えとして百合を自ら選択するに至ったのです。勿論、こうした百合そのものを問い直す行為自体は他作品でも見られることですし、筆者もそれをこの作品の新規性・独自性だと主張するつもりはありません。しかし、そうした作品自身が最初から持つジャンルとしての特性に対する疑問と自立を、物語内においても、あるいは各キャラクターにおいても同様のプロセスを用いて通底させたという点において、魚の見る夢は2巻で完結しながらもその全体としての完成度の高さを評価されるべき作品だと、筆者は考えています。

 

以上で、魚の見る夢についての内容のまとめを終えたいと思います。約3万文字と大変長い文章量になってしまいましたが、最後までお付き合い頂きありがとうございました。突貫で書き上げた文章なので幾分か拙いところもありますが、そこは発見し次第修正していきたいとおもいます。その他何かしら感想がございましたら、このブログのコメントか筆者のTwitterにリプライ頂ければ幸いです。それでは。