ぼっちQ&A!~小川麻衣子作品感想ブログ~

『ひとりぼっちの地球侵略』や『魚の見る夢』等、漫画家の小川麻衣子先生の作品について感想を綴ったブログです。

『てのひら創世記』1巻についてざっくりまとめてみた(速報版)

※本記事は8/14に投稿した記事を1巻分の情報のみで再編集・加筆・訂正したものとなっています。リンク先の記事は1巻以降のネタバレも含んでいるので、こちらをお読みいただくようよろしくお願いいたします。

※本記事は9/11発売の『てのひら創世記』1巻及び『ひとりぼっちの地球侵略』全15巻に関するネタバレがあります。

 

こんにちは、さいむです。今回は、9/11日に発売された『てのひら創世記』1巻について、内容をざっくりまとめていきたいと思います。

※『てのひら創世記』の紹介や1巻購入に関するアドバイス等はコチラから!

今回は速報版ということで、各描写の詳細は省き、作品の主題(と思われるもの)を端的に紹介するに留めていきましょう。

<『ひとりぼっちの地球侵略』から読み解く『てのひら創世記』へのテーマの変遷>

さて、『てのひら創世記』という作品を読み解く上で絶対に押さえておきたいキーワード。それは「自由」です。

『ひとりぼっちの地球侵略』(以下『ぼっち侵略』)という作品を初めとする小川麻衣子作品の変遷をたどって『てのひら創世記』を読む限り、この作品は恐らく「自由」というテーマを支柱にすることでかなりスムーズに読み解くことができるはずです。

 

で、この作品の何が「自由」を取り扱っているのか、という話ですが。

まず大事なポイントとして、小川麻衣子作品における「自由」とは、「何にも縛られないこと」を必ずしも意味しません。それは「自分にとって価値のあるものを、自分の意思でつかみ取ること」です。そしてこのことを強調するために、小川麻衣子作品における「自由」は寧ろ、「不自由」な環境で生きるという選択を自らの意志で取ることこそが「自由」であるかのようにも描かれます

 

ここでは『ぼっち侵略』をその例として挙げてみましょう。主人公の広瀬くんは祖父の珈琲店を継ぐことに憧れ、自ら望んでその道を進んでいきます。宇宙や宇宙人といった広い世界、宇宙人や魔法に基づく超常的な力、子供ならではの自由な時間、自分の知らない未知なる可能性、そういったものに彼は一切後ろ髪を引かれることがありません。そしてヒロインの大鳥先輩も、宇宙人として神にも迫る強大な力を振るい自由奔放に生きてみせながら、その実は只一人の人間として生きることを何よりも望むようになっていきました。他のキャラクターも挙げていくと枚挙に暇がありませんが、ともあれぼっち侵略において「自由」とはそのように扱われています。例え何かに強制された道であっても、他の誰かによって予め敷かれたレールであっても、その上を自らの意思で進むことこそが「自由」なのです。

対して真にしがらみからの解放を望む者達は、結果的に全てを破壊することでしか望んだ形の自由を手にできなくなります。大鳥先輩と対立したゾキやマハは、過去や未来の一切を破壊することでしか今に価値を見出すことができなかったために、広瀬くん達と対立し、やがて敗北していきました。それほどまでに、小川麻衣子作品において「自由」とは価値の在処と密接に結びついているのです。

 

また、『ぼっち侵略』という作品のテーマに関しても「自由」とは大きな問題になり得る要素でした。これに関してはテーマとの単なる結びつきというよりは、テーマを実践する上である程度犠牲にならざるを得なかったものこそが「自由」と言えるかもしれません。

『ぼっち侵略』の中心的なテーマは「赦し」でした。仲間を救えず、地球人を大勢死なせ、そしてそのことを忘れたまま、地球人の倫理観さえも碌に理解できない状態で生きようとする。それが大鳥先輩の背負った「罪」です。大鳥先輩は広瀬くんとの出会いを通して少しずつ他者と向き合えるようになり、自らの「罪」を自覚し背負える人間へと成長していきました。

また、広瀬くんはこの物語において大鳥先輩を「赦す」役割を背負っています。広瀬くんは大鳥先輩と共に過ごす中で少しずつ大鳥先輩を理解するようになりました。同時に、その共に過ごす時間そのものが大鳥先輩に対する「赦し」となり、大鳥先輩の生きる道を指し示すことへも繋がっていきました。

同じ場所で同じ時間を過ごし、そうして紡がれた時間、歴史の流れを受け継いでいくことで人は罪を背負い、また赦せるようになる。それが『ぼっち侵略』という物語だったと言えます。

問題はそのテーマを実践するにあたって、大鳥先輩や広瀬くんの「自由」が奪われざるを得なかった、という点にあります。

大鳥先輩は他者及び他者という概念と触れ合うことなく生きてきた少女であり、『ぼっち侵略』ではそのことを前提とすることで、「赦し」というテーマを大鳥先輩の成長と共に段階的に描くことが可能になっていました。逆に言えば大鳥先輩の他者と触れあい、他者を知っていく成長の過程は物語のテーマに強く要請されたものであり、その意味において大鳥先輩は物語のテーマの体現者として、常にテーマに縛られ続ける存在でもありました。一見して自由に振る舞っているように見える彼女の言動は、実は常にテーマによって徹底して管理されるものでなければならなかったのです。このことは大鳥先輩の具体的な成長段階が作品において常に秘匿されるような描き方をされている点から逆説的に導き出すことが可能であり、またこれによって大鳥先輩から少なからず損なわれたものも存在します。

 

そう、ラブコメです。

 

アイラと龍介のカップリングの方が所謂ラブコメの最大瞬間風速としては高いということはこのブログでもチラホラ言ってきたような……そうでもないような気もします。これについて改めて説明しておくと、元々大鳥先輩と広瀬くんの関係は作品に設定されたテーマの完走を主軸に置いたものでした。3,5巻の古賀さんや9巻の針山くんによって発生したラブコメ展開でさえも作品のテーマを次の段階に進める上で必要な葛藤を描くために投入された一面を持っていたほどです(そのため、この辺りは弊ブログでも強めに解説を入れています)。一方で、その軛の外にあった龍介は、アイラに対して比較的自由にアプローチすることが可能になりました。結果、龍介とアイラのやり取りは必然的に「二人の仲が段々深まっていく」ことそれ自体に焦点が置かれることになり、結果としてこの二人の関係性は主人公とヒロインのそれよりも、所謂「てぇてぇ」ものになっていました。

私個人は寧ろテーマを初志貫徹したことの方が面白いと思う人間ではありますが、少なくともこの点において、『ぼっち侵略』はその戦略をある程度間違えていたと言うことは可能かもしれません。『ぼっち侵略』はそのテーマにおいても作劇方法においても、定められた上のレールを自発的とは言え走り続ける物語であったのです。それを傍証するかのように、大鳥先輩や広瀬くんの住む世界(地球)を守り、また二人に守られてきた存在でもある「港」は、作品のテーマこそがあるいは二人を縛っていたものの正体であることを認めるがごとく砕け散り、最後は成長した二人を自由な世界へと解き放ちました(『ぼっち侵略』最終15巻の表紙はその後の世界を表現したものでもあります)。

これは広瀬くんが12巻で宣言した港の完全封鎖とは全く異なる結末であり、『ぼっち侵略』という作品の構造が抱えた矛盾を、そのラストでギリギリ解消したものでもあったのです。

そして、『てのひら創世記』という作品は、この「テーマによる自由の剥奪」という『ぼっち侵略』が抱えた問題の解決を、その焦点としてスタートすることになります。

 <『てのひら創世記』における「自由」の実践とその展望>

やっと本題に戻ってきましたが、では現時点における『てのひら創世記』の「自由」の実践とは如何なるものだったのでしょうか。それはまず、キャラクターの言動をテーマによって強く縛りつけない、という点に集約されるでしょう。『ぼっち侵略』は「ただ一緒にいる」という行為がテーマである「赦し」へと繋がるものであり、その早期の暴露によるテーマの崩壊を防ぐために、各種描写を隠匿する必要がありました。対して『てのひら創世記』は、そもそも作品のテーマを登場人物の始点として明示することなく、各キャラクターの行動が結果的にテーマへと回収される形式を取りました。つまり、千絵や愛一郎の言動をすぐにテーマに回収させず、彼ら彼女ら自身のものとして一時留保することで、真に彼らの価値観に基づいた「自由」な行動を可能としたのです。

 

つまりラブコメです。

 

勿論、これは「人気が出ず打ち切りになる不安があったため、すぐテーマを回収しきれるように保険を打った『ぼっち侵略』」と、「『ぼっち侵略』や『魚の見る夢』を通して経験を積み、テーマを急がずじっくり描けるようになった『てのひら創世記』」という、作家の精神的な余裕、戦略の違いに過ぎないという見方もできます。が、その『ぼっち侵略』自体が先述したようにテーマの早期回収手段とテーマそのものの描き方に関する工夫を一致させてみせたことからも、『てのひら創世記』もまた同様の仕込みとしてこれを実践したと見てよいと私は考えています。

では、『てのひら創世記』は如何にしてここから「自由」というテーマを回収するのか……については後述するとして、そもそも千絵や愛一郎にとっての「自由」とはどう描かれているのか、こちらを見ていきましょう。ちなみに、二人はそれぞれ大鳥先輩と広瀬くんの延長線上で考えると理解しやすいです。

まずは愛一郎から。花形流の家に生まれた彼は、父親が幼い頃に失踪したことが原因で不良と化しています。子供の頃に花形流を教えてくれていた父が失踪し、母を悲しませたことで、愛一郎は花形流(剣術)を嫌い、また母を悲しませないために(これ以上家族が壊れないために)自らを強く見せることを選択したのです。壊れてしまった家族の中で父のいない穴を埋めるには、「子供」という自らの立場を歪めなければなりません。その上で花形流を継ぐという方法を父への嫌悪故に取れなかったことが、彼を不良へと追い立てた、ということになります。

家族を守るという一点では『ぼっち侵略』の広瀬くんと似通っていますが、その上で家業を継ぐということには反発しているところが愛一郎の特徴です。これと不良という現在の状況が加わることで、愛一郎は「今後に向けた目標が持てないキャラクター」として造形されています。単純にグレていることを除いても、不良とは家族を守るための緊急避難に過ぎません。先に続くものではない以上、愛一郎には家族を守っていくための今後のビジョンがないということになります。なので実は、愛一郎は確固たる目標がある千絵よりもかなりまずい立ち位置にいるキャラクターということになります。彼が家族を守っていくための道をどのように見つけ出すか、それが『てのひら創世記』という物語の一つの軸となっているのです(そこ、二人が結婚してスーパー花形流になれば全て解決とかそういう安易な結論は言わないこと)。

次に千絵。彼女は柊花形流の次代継承者であり、本家花形流の打倒を目論んで須崎家を訪れます。千絵は柊花形流を守るためにきつく苦しい修行を積み、更に従兄弟に蔵に閉じ込められるような辛い目にも遭っています。そのような苦難を乗り越えて彼女が頑張ってきたのは、剣術こそが大好きな家族との絆であったからです。そのため、千絵は剣術や地流丸に対して強い執着を持っています。それは決闘相手である愛一郎に剣術の手ほどきを勧めるほどであり、母親に電話越しに「地流丸を探すのは無駄なこと(千絵主観の意訳)」と言われたときは大変なショックを受けていました。

なお、千絵にとって柊花形流と家族が=で結ばれる関係であるかどうかはちょっと微妙な部分があります。同じ柊花形流内で千絵に対する妨害が行われたことは確かですし、その上で千絵が本家打倒のために単身博多を離れるような無茶を行っていることを考慮すると、彼女が頑張らないと柊花形流や彼女の家族(従兄弟を除いた一等親以内?)の崩壊といった事態が起こる可能性もあります。愛一郎が歪んでしまった家族の枠組みに苦しめられている以上、千絵に同じことが起こっていないとは言い切れないでしょう。

閑話休題、家族を守るために剣を望んで取り、辛く苦しい道を自ら選んで進んできたのが千絵というキャラクターであると言えます。この時点で大鳥先輩の発展版であると読み取るに十分な情報量ですが、その一方で彼女は大鳥先輩と異なり人並みの倫理観と他者とのコミュニケーションに関する常があります。そのため、愛一郎と千絵のやり取りは『ぼっち侵略』のような成長物語としての側面が然程強くありません。互いにある程度同じ次元で会話ができるからです。

また、千絵は愛一郎と異なり未来に対するビジョンがそこそこ明確です。柊花形流(家族)を守るために本家に決闘を挑むという無茶を犯してこそいますが、逆に言えばそうした行為で自らの強さや立場を知らしめることが彼女の望む未来を掴み取る道であることは確かのようです。つまり彼女は剣の道をひたすら突き進むことで目標に到達できますし、ひーくんをギミックとして発動するであろう『てのひら創世記』の世界観開示イベントにも「それが役目ならやる!」ですぐ乗っかることができるのです。だからこそ地流丸消失イベントによって速攻でデバフがかかっているのですが(これも要するに大鳥先輩から心臓が消えたみたいなものですね)、ともあれ通常時の千絵は愛一郎よりも前に進む原動力が非常に強いキャラクターであることは確かです。

こうして両者を観察していると、愛一郎の家に千絵が訪れる構図は広瀬くんと大鳥先輩の構図に似ていますが、反対に愛一郎には未来へのビジョンが一切なく、千絵の方にこそ目指すべき目標が存在する点では『ぼっち侵略』からアレンジが加えられています。更に二人が同レベルで会話できることによって、会話の全てをテーマに回収させる必要が無くなっています(『ぼっち侵略』ではそうしないと大鳥先輩の成長がシナリオに追い付かなかった)。これによってラブコメをしっかりと描ける余裕が生まれているわけです。

また、『ぼっち侵略』のテーマである「赦し」を第1章第2節「雨を斬る」で速攻回収に来ている部分も見逃せません。この話で愛一郎は厄介者であり家族を乱そうとした千絵の「罪」を、共に家で過ごす時間の中で「赦し」、家に連れて帰っています。『ぼっち侵略』ではこの方針をおおよそ描き切るのに1巻丸ごと費やしましたが、今回は千絵がある程度まともな人格を持っているので2話まで短縮されているのです。これは『ぼっち侵略』のテーマを土台として用意することで、その延長線上にあたる『てのひら創世記』のテーマを描きやすくるする狙いがあると考えられます。互いの存在を一度赦し合わせ、ある程度自律した人間としてコミュニケーションさせることで、互いの価値観の葛藤や変化、対立を描写させやすくしたのです。なんとなれば、先述した通り小川麻衣子作品における「自由」とは「自分にとって価値のあるものを、自分の意思でつかみ取ること」であるからです。

さて、千絵と愛一郎の「自由」(価値の在処)は、例えば第一章第一節「月と太陽のめぐり」においても何度も何度も描かれています。冒頭部分においてすら、千絵と愛一郎が互いに不本意な(=不自由な)状況にあることを示していますし、ひーくんはその象徴として描かれています。赤ちゃんは家族に守られるべき存在であり、またそうであればこそ家族を縛る存在でもあるからです。

二人の「自由」は、この第一章第一節においては一見して対照的なものとして描かれます。家系や血筋に縛られつつもそれを望む千絵と、家系からの解放を望みつつも根底で縛られ続ける愛一郎。代々受け継いできた剣を我が物として自由自在に扱う千絵と、剣を捨て拳を自由に振り回そうともがき苦しむ愛一郎。

交わることのなさそうに見える二人の「自由」は、しかし一方で「家族を守る」という一点において共通するものであり、だからこそひーくんの存在が意味を持ちます。ひーくんは赤ちゃん(新たな家族)という不自由の象徴でありながら、また赤ちゃん(新たな家族)であるが故に、二人の「自由」が重なり合う可能性と未来の象徴でもあるのです。

であるならば、『てのひら創世記』におけるテーマの回収手段も自然と見えてきます。赤ちゃんは新たな家族であり、また成長することで家族内における役割、立ち位置が変化する存在でもあります。千絵と愛一郎もまた成長することを外部の人間達から望まれていますが、その内実は明らかになっていません。二人の成長とは何なのか。それは恐らく、単純に「知る(自認する)」ことなのではないでしょうか。なんとなれば価値とは「知る」ものであり、「自認する」ことでその対象を再認識できるものだからです。これは『てのひら創世記』における設定の開示速度が遅いことも関わってきています。「知る」ことが二人の成長=テーマの回収に直結する以上、作品の設定を無闇に開示することは二人をテーマの軌道上へと配置してしまう行為になり、つまりは「自由」を奪うことになりかねないからです。

物語の設定、セカイの全貌が明らかになる中で、果たして千絵と愛一郎はどのような「自由」をそのてのひらに掴むのか。それこそがこの物語の最大の焦点となることでしょう。しかしそうであればこそ、二人の「不自由」で「自由」な日々を、今はじっくりと読んでいければと思う限りです。一見して遅滞して見える日々こそがこの作品のテーマであり、また我々もまたそんな二人を見ていたいと、きっと思える筈なのですから

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ざっくりまとめ速報版は以上になります。各話解説も網羅した完全版は9~10月以内に投稿予定です。しばらくお待ちください。ではでは。