時緒、かける少女(2)
(2)
時緒たち3人はお祭り初日を早めに切り上げた。下の二人が疲れてしまったからだ。普段ならまだまだ頑張れる筈だが、人ごみで体力を消耗したようだった。
「ふぅ……」
着物を綺麗に片づけ、一息つく。お祭りはまだまだ長く続くが、妹達と3人で動けるのは明日の日曜までだ。そこからは時緒も学校がある。
妹達を見に向かうと、二人とも既に寝てしまっていた。夕飯を食べ終えてから寝支度を整えるまでいつにない早業である。
灯りを消したまま二人にそっと近づいてみる。これだけ疲れた後だと明日はお祭りに行くのを嫌がるかな、とも思ったが、満足そうな寝顔を見てすぐ考えを改めた。これなら明日も元気よく楽しんでくれるだろう。早起きして今日よりも早く身支度をしてくれれば、次のイベントはもっと良い場所で観られるかもしれない。
暗い部屋で座って二人を眺めていたせいか、時緒自身も段々眠くなってきた。私も寝る準備をしないと、でも妹達の寝顔を見るのをやめるのもなんだか勿体ない……そんなことを考えているうちに、時緒は座ったまま寝息を立て始めていた。
眠りに落ちる寸前、帰る途中で吹き始めた夜風に首を竦めた記憶がよぎった。
着物で空いた首元をさらう風。季節が夏から冬に移りつつある。
あのとき、首に巻いていたマフラーの出番も近づいていた。
――時緒は真っ暗闇に立っていた。
何時からここにいたのかも分からない。振り返ることも座ることもできない気がして、棒立ちになったまま何もない空間を見つめている。
自分の服が陸上で使うユニフォームに変わっている。これから走るというのに縛っていない髪の毛の居心地が悪かった。
……走る?なんのために?
分からない。ただ自分は走らなければいけないという確信だけを頼りに、時緒は何かを待っていた。
やがて、闇の中から小さな人影が現れた。一筋の光もないというのに、小さな人影は形姿が明確に分かるように暗闇から浮かび上がってきたのだ。
「こんばんは、お姉ちゃん」
妹ではない、小さな女の子の声。鋭い笑みが三日月のように暗闇で閃く。
知っている。
時緒は思い出した。夏休み。雨。ウサギのリュックサック。東人町で途絶える記憶。
小さな大鳥先輩。
「待ってたんだ、お姉ちゃんのこと」
何故か不安はなかった。それよりただ焦らされている気がして、時緒は話しかけた。
「あなたは誰なの? ここはどこなの?」
「私が誰かなんて大したことじゃないわ。そしてここはまだどこでもない。でもこれからお姉ちゃんの望む場所になる」
「私の……望む場所?」
「そ! でもそのためには走らないとね。ここがそうなんだけど……移動しないといけないの」
女の子の言っていることはよく分からない。でも、それがスタートの合図であることは分かる。
「お姉ちゃんが速く速く走らないといけない。できるよね?」
返事をするよりも先に足が前に出ていた。いつも部活でやるような綺麗なスタートではなかったけれど、すぐ体が覚えている姿勢でゆっくりと走り始める。私の意志で。
「ねぇ、どこへ行くの?」
走りながら声をかける。女の子の方に向かっている筈なのに、その姿が一向に大きくならない。”速く走っていないからだ”と、心に囁く何かがいる。
「お姉ちゃんも私もずっとここにいるよ? ただ速さが必要なの。私は場所を提供しただけだから」
呼吸を意識する。腕の振りを、足のリズムと合わせていく。真っ暗なのに確かに感じる地面を蹴って、全速力に移行していく。
「私前からお姉ちゃんのこと見てたんだ。足、速いんだね。体育祭凄かったよ」
どこで見ていたんだろう。なんで私なんだろう。疑問が私の疾走に負けて暗闇に消えていく。
不意に、女の子の声が低くなった。
「でも、大鳥希ほどじゃない」
ゾクリとする。今日吹いた夜風の寒さを思い出す。今、私の首にマフラーはない。
岬一くんも、あのことを覚えていない。
でも私の代わりに。あの人が。
グッと顔を上げる。拳を強く握りしめる。
体が風を切り裂いていく感触を捉え始めた。
「あはは、凄い! その調子!」
女の子が笑う。
「ねぇ、どうして私なの!?」
一度心に浮かんだものと同じ問いが口をついて出た。何故繰り返したのだろう。女の子の姿がこんなにも近づいてきたからだろうか。
「理由は色々あるの。お姉ちゃんじゃないといけない理由がいっぱいあったから。でも一番は……お姉ちゃんが、”本当に”お姉ちゃんだったから、かな」
女の子は目の前まで迫っていた。私はどこまでも速くなって、暗闇までもが私に置いていかれそうになっている。
「さぁ、教えて。お姉ちゃんはどこに行きたい? 何をしたい?」
もう女の子に手が届く。私は走りながら手を伸ばす。
その前に、言葉が女の子に追いついた。
「私は、大鳥先輩よりも”早く”なりたい!」
ザッ、という音ともに時緒は女の子の脇を走り抜けた。横に避けた女の子はあっという間に時緒の後ろへ、暗闇の奥へと消えていく。
「いいわ、叶えてあげる。ここなら私は、神になれるから」
そんな声が聞こえるか聞こえないかの間に、時緒は暗闇を走り抜ける。
光がゴールとなって、時緒を迎え入れた。