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ぼっちQ&A!~ひとりぼっちの地球侵略感想ブログ~

月刊少年サンデー『ゲッサン』にて好評連載中の漫画『ひとりぼっちの地球侵略』について、徒然なるままに感想を書いていくブログです。

最近、お話に出てくる幽霊って怖くないよね、という話。―疑似的な第二の人生と成仏に纏わる矛盾―

――幽霊は悪魔とちがつて、徹頭徹尾凄味あるのみ、甘さやユーモアは微塵もない。ひとつには人間の本能にひそむ死への恐怖が幽霊と必然的に結びついてゐるためもあるが、又ひとつには「死んで恨みを晴らさう」といふ笑ひの要素の微塵もない素朴な思想が、幽霊の本質的な性格を規定してゐるためである。(坂口安吾『幽霊と文学』より抜粋)

 ・幽霊ってなぜ怖いのか

以前『あの花』を観ていたときにふと思ったことがある。物語に出てくる幽霊ってもっとこう、怖いものではなかっただろうか?と。しかしそもそも幽霊とはなぜ怖いのだろうか。それを考えるための手がかりとして、まず坂口安吾の『幽霊と文学』から軽く抜粋してみた。

幽霊というのは大雑把に死んだ人間の魂なりなんなりが成仏できずにこの世に留まってしまうものを言う。彼らは生前果たせなかったことや酷い仕打ちを受けたことを悔やみ恨み、そのせいで成仏したくてもできないのである。

それがなぜ怖いのか。坂口安吾の言う通り、死を連想するからというのも、恨みを晴らすという思想があるからというのもあるだろう。しかし私はそれに加えて「幽霊という存在そのものが苦痛と負の概念である」からだと考えている。

まず、パッと考えて自分が死んだとしてまだこの世にいられるとしたらどうだろう。普通にいたくなるのではないか。にもかかわらず幽霊は成仏することを望んでいる。その理由は幽霊であること自体が苦痛である以外には考えにくい。では何が苦痛なのかと言えば、成仏して極楽浄土に行けないことが苦痛なのである。

死んだ人間は天国なり極楽浄土なり、いずれにせよとても良い世界に行ける。これを召天や成仏というのはまぁキリスト教でも仏教でも大雑把に似たような考え方だ。死んだら良い世界に行ける。だから死に対する不安をある程度緩和して日々を生きることができる。宗教の持つ役割の一つと言えるだろう。しかし”死んだら良い世界に行ける”という発想そのものが反対に”行けなった人間がどうなるのか”という発想を呼び起こす。地獄でもない場所である。例えば心から無念そうに死んだ人間を見たとき、人は極楽浄土に行こうにも悔しくていけないのではないかと考える。もしかしたらまだここでさ迷っているかもしれない。未練と恨み故に極楽浄土にも行けないなんてとても恐ろしいことだ。……ざっとこんな感じである。死後の良い世界に行けない存在の事例として幽霊は恐れられている。だから幽霊は皆人を恨みつつ心から憎そうな辛そうな表情をするのだ。幽霊であること自体が一種の罪なのである。彼らは恨みを晴らすことで普通の人間と同じように成仏をしようとするのだ。幽霊にとって成仏とは一切が負の世界の中でたった一つの救いであり、そこに至る道としても恨みを晴らそうとするのだろう。

・幽霊は第二の人生?

幽霊というのは連想されるもの、思想、そして存在そのものまで全てが負の方向に働く存在であるという仮説をここまでで立ててきた。その上でもう一度『あの花』を見ていると、特に幽霊であることそれ自体をめんまが苦痛にしているようには見えない。別に『あの花』に限った話でもなく、『黄昏乙女×アムネジア』の夕子だったり、レーカン!の幽霊達だったりと、特に極楽浄土に行けないことが苦痛の極みではないようにそこに存在している。それを見る私達もまた、「こうなったら恐ろしい」と思うこともない。彼らの在り方は、それがまるで”幽霊という形をとった期限付きの第二の人生”であるかのようだ。

第二の人生という考え方は、所謂異世界転生ものにも通じる考え方ではある。異世界に転生することでリセットされた第二の人生を歩み、かつ自分のかつての人生を活かして第二の人生で活躍する。『あの花』を初めとする作品における幽霊達も、幽霊としての在り方をある程度満喫しつつ、自分の生前の記憶を標に活動する。細部は違うものの、物語内での構造としてはそれほど差がないのだ。

そして現世にいること、極楽浄土に行けないことを苦痛としない幽霊が第二の人生の一種として機能するとなると、”成仏する”ということの意味は変わってくる。それは彼らにとって辛くない現世から否応なく去ること、つまり「二度目の死」を意味するからだ。成仏そのものは幽霊とセットの概念だから逃れることもできず、よって彼らは成仏する前に現世を見て悲しむことになる。それは昔の幽霊の成仏とは異なる意味合いを持つものだ。成仏という本来は全てが苦痛な中での唯一の救いであった事象が、逆に幽霊に存在の消滅、死をもう一度突きつける行為に変わっているのである。成仏という言葉そのものの有り難さとその裏で進む二度目の死の辛さ。作品を鑑賞する中でそれが一種のむず痒さのような矛盾を感じさせ、その隠された板挟みがあるからこそカタルシスに一層の拍車をかける。『あの花』を初めとする作品に出てくる幽霊達はそのように機能しているのだ。

 ・幽霊ではなく成仏と極楽浄土が変わった

では何故このような幽霊という存在に対する認識の変化が生じたのか。結論から先に言ってしまえば幽霊に対する考え方はさほど変わっていない。決定的に変わったのはそちらではなく成仏と極楽浄土に対する認識の方だと私は考える。

私は成仏や極楽浄土と言われてもあんまりピンとこないし嬉しいとか楽しみというイメージもそんなに湧かない。多分これを読まれている皆さんもそういう風に思われる方が多いのではないだろうか。

身も蓋もない話だが、科学が進歩して暮らしが現実的に豊かになるとあんまり死の不安を意識せずに済むようになる。科学によって神秘性がある程度解体された宗教は、暮らしに浸透はしているものの強く効果を発揮するものではなくなった。そうなると、成仏や極楽浄土という考えを信じたり頼ったりしなくてもやっていけるようになる。大体こんな感じで成仏や極楽浄土の説得力が弱くなっていったのだろう。素晴らしい死後の世界を信じなくても良くなったのである。

すると、幽霊という発想の源かつその存在自体が苦痛である根拠だった成仏と極楽浄土が無くなってしまうわけで、幽霊の存在意義が宙ぶらりんになってしまった。幽霊の危機である。このままでは死んだ奴が未練や恨み”程度”のものでまだこの世に居て悪さを働くという理不尽極まりない謎の存在と化してしまう。意味が分からない。その理不尽さから生じる恐ろしさを利用する手もあるが、それだけでは窮屈だ。

そうした消滅のピンチの中で、極楽浄土という枷を外された幽霊に新たな解釈が影ながら生じるようになった。第二の人生という考え方がそれである。確かにそうだ。極楽浄土に行くことが救いという思想を省いて幽霊だけを見ると死んでもふわふわ宙に浮いて自在に移動でき人によって見えたり見えなかったり脅かしたりできる実に便利な存在だ。成仏という期限が条件としてついているがそれもスパイスとしては十分に機能するだろう。

・成仏が持ってしまった矛盾と、物語における幽霊のこれから

こうして幽霊は第二の人生という影の意味合いが付属されるようになり、成仏は祝福されるべき言葉の裏に二度目の死という考え方を付与されるようになった。なんのことはない。それは幽霊というギミック、アイディアが極楽浄土の説得力が薄れた世の中でもなお生き続けるための、当然の帰結だったと言える。成仏という言葉の持つ意味に多少の矛盾は出てきてしまったが、大したことではない。無視して問題のない範疇だ。

 

……いや、本当に無視して良かったのだろうか?

一つ、それを無視できなかった作品を知っている。西尾維新の『鬼物語』だ。

 

「だったら教えてあげるよ。空気を読まない名探偵のように。真宵ちゃんがついている嘘は――今、そこにいるという嘘だ」

「本当はもう成仏している筈なんだろう?真宵ちゃん、きみは――

「――なのに、今もそこにい続けている。そういう嘘をつき続けている。そりゃ怒られるよ。非存在でなくとも、こらってね」

 

 八九寺真宵化物語で成仏したにもかかわらず、その後も現世にい続けた。その結果、くらやみという怪異のルールを破った怪異を消す”法則”に追われることになる。幽霊が新たに持った第二の人生という立ち位置、そこに生じる微かな矛盾を徹底して問い詰めたのだ。結果、八九寺は成仏することとなる。それを只唯一の救いであると、幸せなものであると受け取れた人がどれだけいただろうか?主人公の阿良々木暦にとって、彼自身はそう言わなくとも、それは八九寺という存在の避けられない消滅、実質的な死として受容されたのである。

もっとも八九寺はその後――と説明したいところではあるのだが、これから『暦物語』以降の映像化があるだしここはまだ書かない方が良いかもしれないのでやめておこう。

ともあれ、私はこの成仏という影の矛盾に正面から立ち向かい、第二の人生という在り方を損なわずしてなお克服しえた作品をまだ知らない。もしご存じの方がいたら是非教えて頂きたい。この記事のコメントに書いて頂けたら幸いである。

ここまで色々書いてきたが、幽霊というものが極楽浄土という前提を失い、疑似的な第二の人生として在り方を持ったことは別に否定的になることではない。むしろ当然の流れであり、それを踏まえた名作も幾つも存在するので好ましいと言える。『あの花』は面白かった。ただその一方で、成仏に纏わる矛盾がまた新たな問題として物語の幽霊に影を落としつつある。あるいは流行になりつつある異世界転生ものがその系譜を受け継ぐという形でその問題を解決したと言うこともできるだろう。しかしできるなら、あくまで幽霊というギミックの中でその解決を見てみたい、というのもまた一つの欲としてある。いつになるか分からないが、それに出会うのが今から楽しみだ。